上恩田の富士塚

恩田にあった2つの富士塚のうち北のほうを、上恩田の富士塚といいます。



位置については別のメモに書いたとおり、区画整理前の恩田町5525番地、現在の桂台一丁目15番地の一角です。桂台公園から北西に200mほどの場所です。



出典: 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 空中写真 MKT706-C4-5 加筆


この辺りを南北に縦断していた鎌倉路または登戸道と呼ばれた道沿いにありました。

この富士塚は昭和49年(1974年)ごろ、桂台一丁目の宅地造成で破壊されて消滅しました。しかし幸いなことに事前に昭和45年(1970年)に発掘調査が行われていて「横浜市緑区奈良・恩田地区遺跡群調査報告」として記録が残っています。この資料にある調査当時の情報も交えながら、上恩田の富士塚について詳しく書いてみようと思います。


塚がなくなった現在も、ここには塚にあったという9個の石碑が並べて保存されています。


番号名前発掘時の位置
1冨士淺間大菩薩 祠頂上
2食行身禄 碑中腹 南東面土中
3中郷淺間宮 碑中腹 南東面土中
4小御嶽石尊大権現 碑中腹 南面
5御室淺間宮 碑参道際(6の先)
6冨士淺間太神 碑参道際(5の手前)
7鈴原太神宮 碑参道際(8の先)
8参明藤開山 碑参道際(7の手前)
9手水鉢参道際


参道の向きは塚があった頃と同じ向きに合わせられています。また配置も、塚に置かれていた(または埋もれていた)順序をほぼ保ったまま並べられているようです。

塚があった当時に石碑があった詳細な位置は調査報告にも記されていないのですが、文章や記録写真からおよその位置関係が読み取れます。調査報告の平面図を引用して、調査時に石碑が置かれていた(または埋もれていた)およその位置と塚の断面図を、私の解釈で書き加えました。



出典: 横浜市埋蔵文化財調査報告書(2) (横浜市埋蔵文化財調査委員会) 加筆


この塚の特徴的なところは、頂上を囲むように中腹に平らな段があることです。調査報告では中道(ちゅうどう)ではないかと推測しています。

中道というのは、富士山を5合目あたりの高さでぐるっと1周するコースです。富士信仰では神の世界と人間の世界の境界とされます。斜面を渡り歩くハードな長距離コースで、登頂3回以上を達成した上級者しか入ってはいけないという、憧れのコースでした。



つまり、富士講の人たちが富士山で歩くメジャーなコースは吉田口登山道の登頂がひとつ、火口のお鉢巡りがひとつ、そして中道がひとつです。この富士塚は登頂ができて、頂上でぐるぐる回ればお鉢巡りの気分も味わえて、さらに憧れの中道も歩ける、そんな富士塚だったかもしれないということですね。


それでは現地調査です。せっかく石碑が現存しているので、実物の石碑に刻まれた内容を見てみます。

それぞれの碑には上恩田の富士講の人々と思われる氏名が多く刻まれていますが、その具体的な記載は割愛することにします。


1 冨士淺間大菩薩 祠

 正面上: 道行中惣供□
 正面右側: 願主(氏名1名)
 正面中央奥: (判読できず)
 正面左側: 願主(氏名1名)
 右側面: (放射状に氏名?名ほぼ判読できず)
 左側面: (放射状に氏名?名ほぼ判読できず)
 背面: 寛政八辰歳



この塚にある建立年が刻まれた碑で最も古い、寛政8年(1796年)のものです。

この祠は土を盛って少しだけ高くしたところに置かれています。宅地造成で塚を破壊したとは言え、少しでも元の様子のまま、富士塚のあるべき姿のまま、とても丁寧に保存しようとした意思が伝わってきますね。


全面に多くの文字が刻まれていますが、私が見たところでは、正面中央奥と左右両側面は風化が激しく文字を読み取れる状態ではありませんでした。調査報告には、正面中央奥に「富士浅間大菩薩」と刻まれていたとあります。

発掘の時は塚の頂上から少し前に出た位置にあったようですが、石壇の跡や風化する前のこの祠の欠片が塚の頂上から出土したということで、当初は頂上に置かれていたと推定されています。富士塚の典型的な造り方からしても、浅間を頂上に置くのが妥当です。


この碑に刻まれている氏名は左右両側面合わせて40名以上あったようです。その中には北隣の成合村や少し離れた寺山村の人も含まれます。寺山村は現在の緑区中山町に隣接する寺山町です。地理的に見て実は寺家村(現在の青葉区寺家町)の間違いなんじゃないかと思ったりもしますが、いずれにしても寛政年間の頃は恩田村だけではなく、他の村も含めた広い範囲でひとつの講が構成されていたということになります。


2 食行身禄 碑

 正面右: 元祖 食行身禄[イ木勺]
 正面左: 三國の烏帽子岩より 涌いつみ 汲めと尽せぬ ふしの吉田口
 正面下: (氏名3名)



三國の烏帽子岩より 涌いつみ 汲めと尽せぬ ふしの吉田口

この和歌は何だろうと思って調べたところ、富士山に関する和歌を集めた富士之奇績という本に、食行身禄(じきぎょうみろく)が詠んだ歌として載っていました。


三國(よもくに)の恵ほし岩より湧くいつみ くめとつきせぬ不二のきたくち
出典: 富士之奇績(竹葉山人)


石碑に刻まれた歌とは字が異なりますが明らかに同じ歌です。

食行身禄というのは富士講の中で2番目ぐらいに偉い人です。ちなみに1番は開祖の角行(かくぎょう)という人です。食行身禄は富士山に修行に入り、吉田口登山道8合目の烏帽子岩で31日間の断食の末に命を落としました。初めからそのつもりで入った修行です。これが江戸の庶民に知れ渡りそのカリスマをもって富士講が大ヒットすることになります。富士講にも諸派ありますが、この系を身禄派といいます。

この碑は食行身禄の化身の意味で置かれ、和歌は食行身禄が発した言葉として刻まれたのではないかと思います。発掘時は塚の中腹に埋もれていたとありますが、おそらく初めは塚の8合目に置かれていたのではないかと思います。


3 中郷淺間宮 碑

 正面: 中郷淺間宮
 正面下: (氏名4名)

この氏名4名のうち少なくとも3名(残り1名は欠損)は「○○妻」と刻まれているので、女性が建てた碑です。

中郷浅間という神社は富士山にはありません。ではこの中郷とは何でしょうか。調査報告に次の解釈があります。

五合目付近を"中合"といい天地の境とする。それを越えると雲海を見ることができる。中宮浅間宮を祀るが「中郷」をあてたものであろう。60年に一回庚申の年は浅間神社の屋根の萱替えがあり中合まで女人禁制を解いた。
出典: 横浜市埋蔵文化財調査報告書(2) (横浜市埋蔵文化財調査委員会)

中合→中郷ということ、そして女性が建てた理由、それぞれ大変納得できる解釈です。

発掘時は塚の中腹に埋まっていたとありますが、上記の解釈に基づけば、おそらく初めは塚の5合目から中道に入る辺りに女性がお参りするために建てられていたのだと思います。


4 小御嶽石尊大権現 碑

 正面下右: 大天杓
 正面中央: 小御嶽石尊大権現
 正面下左: 小天杓
 正面下左隅: (2行数文字削り取られた跡)

 背面: 天保十四癸卯年二月吉日
 背面下: 願主 (氏名4名)

天保14年(1843年)のもので、吉田口登山道5合目にある冨士山小御嶽神社を表したものです。



大天杓・小天杓は「杓」の字を使っていますが、大天狗・小天狗のことだと思います。それぞれ冨士山小御嶽神社の末社として吉田口登山道5合目にあるものです。

この碑は発掘調査時は塚の中腹に倒れていたとありますが、これもおそらく初めは塚の5合目の辺りに建てられていたものだと思います。


5 御室淺間宮 碑

 正面: 御室淺間宮
 正面下: (氏名2名)

吉田口登山道2合目にある冨士御室浅間神社を表したものです。

塚の麓辺りの参道脇にあったということなので、実際の富士登山道の位置関係に合わせていたことが伺えます。


6 冨士淺間太神 碑

 正面: 再建 冨士淺間太神
 正面下: (氏名4名)
 右側面: 天保十四癸卯年二月吉日

天保14年(1843年)のもので、富士吉田口登山道の入り口にある北口本宮冨士浅間神社を表したものです。

これも塚の麓辺りの参道脇にあって、御室淺間宮の手前にあったようなので、実際の富士登山道の位置関係に合っています。



この碑には再建と刻まれています。これと同じく天保14年2月の碑が他にもいくつかあるので、このときに塚を全体的にリフォームしたのだと思います。

先に紹介した祠には寛政8年(1796年)と刻まれていますから、そのときにこの塚が築かれたとすれば、それから47年経って再建したということになりますね。

ただし同じ講が再建したかどうかは分かりません。というのは、寛政8年の祠に刻まれていた名は他の村まで広がっていたのに対して、天保14年の碑は恩田村の上恩田地区に多い姓に集中しているので、講自体が再構成された可能性があるからです。だとしたらこの再建は、ある講が造ってから廃れるなどしていた塚を上恩田の講が引き継いでリフォームしたという解釈もできます。


7 鈴原太神宮 碑

 正面: 鈴原太神宮
 正面下: (氏名3名)

吉田口登山道1合目にある鈴原天照大神社を表したものです。

これも塚の麓辺りの参道脇にあったということなので、実際の富士登山道の位置関係に合っています。


8 参明藤開山 碑

 正面: 参明藤開山
 右側面: 天下泰平 五穀成就
 左側面: 于時天保十四癸卯星 二月吉祥日
 台石正面: [山冨講笠印]
 台石右側面: 世話人 (氏名12名)
 台石左側面: 武州都筑郡 上恩田村 講中
 台石左側面左隅: 二子村 石工松五郎


「参明藤開山」(さんみょうとうかいさん)は富士講のバイブルとも言える御身抜(おみぬき)という文の一部です。私は富士講の人ではないので御身抜の内容をちゃんと理解していないというか、そもそもが開祖の角行が授かってきた神の言葉ということで日本語の体を成してないというか、とにかくよく分からないのですが、富士山最高!みたいな感じのようです。

「参」の字は実際は次のように書きます。



旧字体とかそういうものではなくて、例によってよく分からないのですが、御身抜にまつわる富士講独特の意味があるようです。

それよりも私がメモしたいのは「天下泰平 五穀成就」です。富士講だとか地神講だとか願の掛け方はいろいろありますが、結局のところ完全な農村であった恩田村の人々が願ったのは、戦乱無く、飢饉無く、豊かな実りが得られますように。これに尽きるのです。



天保14年といえば、天保4年から天保9年(あるいは天保10年)まで続いた天保の大飢饉が終わって、ちょうど生活を建て直して安定した頃ではないかと思います。この頃に再建したというのも、しばらくサボっていたけどやっぱりちゃんとお祀りしなきゃ駄目なんだ、ということだったかもしれませんね。


9 手水鉢

 正面: 奉 [山冨講笠印] 納
 右側面: 弘化二巳年三月
 左側面: 願主 (氏名2名)
 背面: 世話人 (氏名10名)
 背面左隅: 二子石工松五郎

再建とされた天保14年(1843年)から2年遅れた弘化2年(1845年)のものです。



参明藤開山碑とこの手水鉢には笠印が刻まれています。笠印というのは富士講のグループごとのシンボルマークです。富士山をかたどった笠が付くのはほぼ共通で、その下の印がそれぞれ異なります。



笠に「冨」の字は山冨講の笠印です。少なくとも天保14年の再建以降、上恩田の富士塚は山冨講の富士塚だったということが分かります。


背面左隅に刻まれているのは、この手水鉢や参明藤開山碑を彫った石工の名前です。職人がその作品に刻んだ銘という解釈で伏せずにおきました。

二子石工松五郎。二子というのは、現在は東急田園都市線の二子新地駅がある川崎市高津区の二子です。村明細帳によると恩田には「商工・大工・左官等なし」でしたから、他の村の職人に作ってもらうしかなかったのでしょうね。



以上が上恩田の富士塚跡に残されている石碑の内容です。

先日、富士山の山開きの後にも見にいってみました。富士講では本来この日に富士塚を登拝しますが、草がだいぶ伸びていて最近誰かがお参りして手入れしたような様子はありませんでした。石碑に刻まれている地元の家系でも富士講を信仰する人はもう居ないのかもしれません。


参考資料:
横浜市埋蔵文化財調査報告書(2) (横浜市埋蔵文化財調査委員会)
神奈川県民俗シリーズ11 神奈川の富士講(神奈川県教育庁社会教育部文化財保護課)

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