薬師堂の石仏群

東急こどもの国線恩田駅から奈良川を挟んだ向かいの辺りに、薬師堂というお寺があります。井戸久保の地神塔のすぐ前にあたります。



境内は本堂とムクロジの樹がある他は、駐車場を兼ねたような広場になっているだけです。



その広場をぐるっと見渡すと、本堂に向かって左側の塀に沿って、9個の石碑石仏が並んでいるのを見つけることができます。



【2017/6/11追記】
2017年6月上旬に山皇社の庚申塔がここへ移されました。



それにより、合わせて10個の石碑石仏になりました。(追記ここまで)


左側から順にメモしていきます。


馬頭観音?

 正面右: (戒名1名)
 正面: (馬頭観音菩薩?立像)
 正面左: 文化二乙丑天八月廾四日



文化2年(1805年)と読める年代のものです。中央の尊像の頭に馬頭のようなものが載っているので、馬頭観音菩薩像だと思いますが、馬頭観音を裏付けるような内容は刻まれていません。右側には戒名と思われる名前が1名だけ刻まれていますので、もしかすると墓標かもしれません。


清正公大神碑

 右側面: 明治四天三月
 正面: 清正公大□
 左側面: 恩田村 願主 (氏名1名)



最後の1文字が剥がれていて定かではありませんが、残っている部分から「神」ではないかと思います。よって「清正公大神」と刻まれた碑と推測できますが、その「清正公大神」が何を表すものかは分かりません。明治4年(1871年)のものです。

緑区石造物調査報告書(1)によれば、この石碑は元々内田の道祖神と同じ、恩田町2254番地先ににあったようです。

【追記】読者の方から、清正公太神は加藤清正のことであろうとのご指摘をいただきました。加藤清正と言えば、この辺りにあった屋敷のひとつが明治神宮御苑にあった加藤清正の屋敷にそっくりの造りだったという話が「置き忘られた郷土史」という文献にあります。もしかすると加藤清正を崇拝する人が住んでいて、碑を建てたりもしたのかもしれませんね。


馬頭観音

 右側面: 明治三十年九月廿七日
 正面: 馬頭観世音
 左側面: (氏名1名)建



明治30年(1897年)の文字馬頭観音碑です。


馬頭観音

 正面右: 昭和十一年
 正面: {山月 青黒} 馬頭観世音菩薩
 正面左: 四月吉日建之
 左側面: 施主 (氏名1名)



昭和11年(1936年)の文字馬頭観音碑です。正面上に「山月」「青黒」と刻まれていますが、この意味が分かりません。この碑が馬の墓標だとすれば、馬の名前だったのかもしれません。


庚申塔

 右側面: 武州都筑郡恩田村 寛政十戊午十一月吉日
 正面: (日月・青面金剛・邪鬼・三猿)
 左側面: (氏名10名)



寛政10年(1798年)の庚申塔です。青面金剛が彫られている点では一般的なものですが、三猿が全て正面を向いていないところが珍しいと思います。


薬師堂住職碑?

 正面上: [種字キリーク]
 正面上左: [種字バン]
 正面上右: [種字ア]
 正面右: □文十一辛亥年
 正面右下: 當寺[善?]
 正面: 爲法印権大僧都尊継[也?]
 正面左下: 中興提
 正面左: 三月廾一日
 正面下: (蓮花葉)



全体的に文字がはっきりしません。年代が一部欠けていますが「□文十一辛亥」に該当する元号は寛文なので、寛文11年(1671年)のものと推定します。

「法印権大僧都(ほういん・ごんのだいそうづ)」というのは僧位です。よってそれに続く「尊継」は僧の戒名と考えられます。このような僧位は位の高い僧に付くものなので、薬師堂の昔の住職ではないかと思います。この行を挟んで左右に分かれた文字から「當寺」と「中興」を都合よく組み合わせると、このお寺を中興した(立て直した)僧であると解釈することができます。また、同じく左右に別れた「[善?]」と「提」は「菩提」かもしれません。

中央の最上部には仏の種字と思われる梵字が3つ刻まれています。



中央・左・右 の順で キリーク・バン(の一部)・ア のように読めますが、微妙に違う形にも見えてはっきりしません。ミスリードになるかもしれませんが、投影した輪郭をメモしておきます。



▲ 種字3種の投影


これが例えば薬師三尊の種字であれば薬師堂として分かりやすいのですが、そうではありません。

では何かというと、一例として挙げれば、種字をキリーク・バン・アとする代表的な仏はそれぞれ阿弥陀如来・金剛界大日如来・胎蔵界大日如来があります。でもこれだと如来に如来に如来ですから、中尊を左右の脇侍が支えるという三尊仏のバランスとしてはかなり違和感があるものになります。それはそれでとてつもなく有難い状態なので、案外正解だったりするかもしれませんが、種字と仏の対応関係も1対1とは限らないので、他にヒントが無いことにははっきりできません。


地蔵菩薩

 正面右: 奉造立地蔵菩薩像現當二世安楽
 正面: [種字 カ(地蔵菩薩)] (地蔵菩薩立像)
 正面左: 旹 寛政十二庚申年十月廾四日



寛政12年(1800年)の地蔵菩薩像です。地蔵菩薩を表す種字「カ」とともに地蔵菩薩立像が彫られています。



▲ 種字 カ(地蔵菩薩)


阿弥陀如来

 正面右: 奉造立弥陀如來爲現受無比楽[授?]生清浄土也
 正面: (阿弥陀如来立像)
 正面左: □享五戊辰天九月吉日念佛[維?]衆 武刕都築郡恩田村



年代の一部が読めませんでしたが「□享五戊辰」に該当する元号は貞享なので、貞享5年(1688年)と推定します。文字として刻まれている「弥陀如來」は阿弥陀如来(あみだにょらい)の略した呼び方ですから、主尊は阿弥陀如来であると推定できます。


不動明王

 右側面: 弘化四丁未二月吉祥日
 正面上: (不動明王坐像)
 正面下: 家内安全
 左側面: 下恩田村 願主 (氏名3名)



この像は2013年頃まではここに無かったので、つい最近になって置かれたものです。台石の部分もコンクリートが継ぎ足されています。

しかし刻まれている年代は意外に古く、弘化4年(1847年)とあります。

彫られているのは不動明王(ふどうみょうおう)です。右手には剣の柄のようなものが握られていますが、上から見ると穴が開いていて、元は刃になる部分を差し込んで置くようになっていたものと思います。

この像がどこから来たのかというと、下恩田村と刻まれていますので、その方面(現在の東急田園都市線田奈駅より東側の辺り)から移されてきたものと推測できます。おそらく、薬師堂の近くに住む家の親戚の縁などで移されてきたのではないかと思います。


【2017/6/11追記】
庚申塔(山皇社の庚申塔

 正面右: 天下泰平国土安全
 正面中央: (日・月・青面金剛立像・邪鬼・二鶏・三猿像)
 正面下段: (氏名12名)
 右側面: 寶暦九年己卯九月吉日 武刕都築郡上恩田村



この庚申塔は2016年6月上旬に三皇社の遷座に伴い、その境内から移されてきたものです。移設以前の状態についてはこちらのメモをご参照ください。

寶暦9年(1759年)の庚申塔です。正面中央には庚申塔としてよく見られるフルセットの尊像が彫られています。移設以前から着いていた頂部の苔も残したまま移されてきました。しかしここは日当たりが良いので枯れてしまわないか心配です。(追記ここまで)


これら10個の石仏が薬師堂の境内に置かれていますが、そのほとんどは薬師堂との直接の関連を見出せません。



▲ 足利街道


地元の方の話によると、ここにあるいくつかの石仏は、元々は薬師堂の裏山にあたる尾根を通る足利街道の道端に点在していたものを、道端では保存しにくいということで移してきたのだそうです。実際に山皇社の庚申塔は足利街道沿いにあった境内から移されてきたことを現在進行で目の当たりにしました。一方で由緒が明らかな清正公太神の碑や山皇社の庚申塔を除いて、そのほとんどは具体的にどれがどこから移されてきたのか明らかではありません。

客観的に見て薬師堂に直接関連がありそうなものは、「法印権大僧都」の銘が刻まれた碑ぐらいかもしれません。

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