椎ノ木地蔵尊

榎が丘と松風台と田奈町の境にあたる所に、椎ノ木地蔵尊というお堂があります。



青葉台駅から駅前に突き当たる道路を榎が丘方面にまっすぐ進むと「椎木地蔵尊入口」という交差点に差し掛かりますが、



ここを曲がると椎ノ木地蔵尊と見せかけて、これは罠です。



数年前に新しく設置された信号機ですが、おそらく付近にあるバス停の名前を安易に取ったところ事実とは異なる交差点名になってしまったのだと思います。

とにかくここを曲がって辿り着く先は椎ノ木地蔵尊ではなく田奈駅なので、曲がらず直進して、桂台方面へ続く坂を登ります。100mほど登っていくと「椎木地蔵尊入口」という青葉台駅に向かう側のバス停があります。



ここを曲がります。



住宅街の中を抜ける緩やかな坂を進み、登り切ったところが椎ノ木地蔵尊です。



開基は不明で住職も居らず、広い境内がある訳でもありませんが、古くからあるお堂です。


新編武蔵風土記稿を見ると、次の記述があります。

地蔵院 境内年貢地、村の中央にあり、これも徳恩寺の末、太州山と号す、平屋作の家にて三間半に二間東向なり、本尊は地蔵坐像にして長一尺二寸ばかり、

この「地蔵院」が現在の椎ノ木地蔵尊を指すという証拠はありません。しかし他にそれらしい寺院が無いので、私は椎ノ木地蔵尊が地蔵院に比定できないかと考えています。


この地蔵尊について詳しいことは、境内にある案内板に記されています。その内容を引用します。隣接する八坂神社のことも記されています。


{椎ノ木地蔵尊 八坂神社} 由来

 この古木茂る地蔵堂境内は、横浜市緑区田奈町37-5面積41坪ですが旧称は、神奈川県都筑郡田奈村恩田字西ノ谷4162番面積48坪でした。昭和14年4月、村が横浜市に合併され、地名は横浜市港北区恩田町となり その後昭和44年10月 港北区は二分され、当地は緑区と改称されました。この地は分区前より開発と区画整理が進められていましたが、昭和46年7月工事が完了し、町名は田奈町に改められました。そして、林野であった一帯の土地は整地されて宅地となり、様相を一変しましたが、この境内は私共住民の「現状維持」の強い要望により、略旧態を保つことが出来ました。
 この土地は元国有地でしたが 去る昭和9年、地元住民が、「祖先以来深く信仰する地蔵尊の鎮座される聖地」の故を以て大蔵省に請願し、代金25圓25銭で払い下げを受け、住民共有の土地としました。
 区画整理前まで石段の前にあった巾2メートル余りの道は、昔府中・鎌倉街道と云われ、今から六百余年前(1333年・元弘3年・後醍醐天皇)上州の名将新田義貞が鎌倉の執権北條守時征討の際、軍勢を率いて此処を通り、鎌倉へ入ったと伝えられています。くだって五百余年の昔(1457年・長禄元年・將軍足利義政)太田道灌が江戸城を築いて以来、この地は人馬の交通が次第に多くなり、その後足利・織田氏等の戦国時代を経て、徳川家康が天下を統一し江戸幕府を開き(1603年・慶長8年後陽成天皇)江戸が大都会となるにつれ旅人の往来も益々多く東は江戸、西は大山、南は神奈川、北は府中へと交通の重要地点となりました。その上、此処は快い台地で、東南の開けた景勝の地でもありますので、信仰を重んずる私どもの祖先は、神仏を祭る絶好の場所として、この地を選んだものと思われます。境内の北隅に昔を偲ぶことの出来る石の道標が建っていましたが、区画整理のため取り除かれ、現在は境内北端に保存してあります。
 今回改築されたお堂に祭られてあります地蔵尊は、子育椎ノ木地蔵尊と申し開基は明らかでありませんが、樹齢数百年に及ぶ椎の古木はよくその歴史を物語っています。私どもは祖先以来数百年の長い間深くこのお地蔵様を信仰し毎年4月4日、ご詠歌のご供養を行いますが、当日は各地より、大勢の善男善女が参詣され賑わいを呈しております。お堂の中に多数の小石がありますが、この小石をお借りして、朝夕念願を込めて体の悪い所や傷の上などをさすっておりますと、不思議にもいつしか其所が快癒すると信じられております。堂内に納められている多数の小石と石仏は、念願によりご利益を預かれた方々が、お礼のために奉納されたもので、いつしかこの様に沢山の数となったのであります。またお堂の裏に立つ椎の古木は、以前は立派な大木でしたが、去る明治39年、浮浪者の焚火の不始末により、お堂が炎上して幹の大部分を焼き酷く損傷しましたが、先般横浜市より、市の保存木に指定され、私共が大切に保護することになりました。尚左方一段低い境内に鳥居が建ち、その奥に小さな石の社が鎮座されておりますが、この社は天王様と申し、お地蔵様同様に私共が祖先以来、厚く信仰し、毎年7月14日簡素なお祭りを行っております。社の本名は八坂神社と申し、御本社は京都市東山区祇園町にある八坂神社でありますが、古くは、感神院祇園社と云われておりました。本地垂迹説(仏・菩薩が衆生済渡のため、仮の姿を取り日本の神衹となって現れると云う神仏同体説)に拠りますと、天王様とは、お釈迦様がお説法なされた寺である祇園精舎という寺の守護神であられる牛頭天王のことであり、日本の素戔鳴尊となって現れたのであると信じられておりました。
それ故昔は仏前に新酒を供へ、神前に読経して、少しも怪しまぬまでに両者が混淆したのでありまして、江戸幕府滅亡以前は、感神院祇園社の祭神は牛頭天王であると確信されておりました。
 明治維新の際、神仏分離の制となり、明治元年5月「神衹宮違」により感神院祇園社は社名が八坂神社に改まり、祭神は素戔鳴尊となったのであります。然し長い間の信念が人々の心から離れず、今日に於ても八坂神社を天王様と申している所が非常に多いとの事であります。

昭和四十九年三月
{椎ノ木地蔵尊 八坂神社} {地元信徒一同 信徒(氏名1名)}



道路から一段高くなった境内へ石段を登っていくと、正面が大きく開いた本堂があります。



猫が住み着いてました。



本堂の中にはお地蔵さんがたくさん並んでいます。



いくつあるのか数えてみたところ、大きいものから小さなものまで合わせて全部で111体ありました。

正面には真言が掲げられています。



真言というのは、仏様に話しかけるときの合言葉と言いましょうか。これを唱えてから話すとこちらの話や願を聞いてもらえるというシステムです。

お札やお守りも置いてあります。



どうやら無人販売形式のようです。


さて、新編武蔵風土記稿に記された「地蔵院」の本尊は地蔵坐像であるとなっていましたが、それに該当するものはあるでしょうか。

正面の目立つところにそれらしい大きさの坐像はありました。しかし年代が新しく、どうも違うようです。堂内は足の置き場が無く全ての像を確認することもできず、結局見つけられませんでした。

それでも江戸時代中期に遡るかなり古い年代の像が置かれていることは分かったので、十分に歴史あることは間違いなさそうです。

いくつか、メモしておきます。


地蔵菩薩坐像

 正面: (地蔵菩薩坐像)
 正面台座: (氏名1名?)
 右側面: 明治十一寅四月



初めはこれが古の本尊かと思ったのですが、年代が明治11年(1878年)ということで新編武蔵風土記稿が記された時期にあたらず、あっけなく非該当という判断になりました。


地蔵菩薩立像

 正面: (地蔵菩薩立像)
 正面右: 南無延命地蔵大菩薩
 右側面: 文政十一戊子年九月



文政11年(1828年)のものです。


地蔵菩薩立像

 正面: (地蔵菩薩立像)
 正面右: 武州都築郡恩田村 施
 正面左: 延宝六戊午十二月□□□□ 主
 蓮座: {庚申 講 結衆 中 □ 二十 四人}



延宝6年(1678年)のものです。これが今回確認できた中で最も古い年代のものでした。新編武蔵風土記稿が記された頃より150年ぐらい昔のものです。

蓮座に刻まれた内容を拾い読むと「庚申講結衆」「二十四人」という文言があることから、これは庚申塔として作られたものだと推測できます。椎ノ木地蔵尊の近くには別の庚申塔もあります。


地蔵菩薩立像

 正面: (地蔵菩薩立像)
 正面右: 弘化三午二月
 正面左: 當村中山 願主 (氏名1名)



弘化3年(1846年)のものです。當村中山と刻まれています。「中山」が地名だとすると、恩田村に中山という地名は伝わっていないので、別の村から持ってきたものかもしれません。あるいは恩田村には中山姓があるので、その人々が住んでいた辺りをそう呼んだのかもしれません。


本堂の一角に小石がたくさん置かれています。



この小石を借りていって体の悪い所をさすると治ると言われています。ここにある地蔵像はそのお礼参りで奉納されたものがたくさんあります。


本堂の左脇に小さなお堂があります。



近年になって阿弥陀如来が奉られたようです。

失礼して中を覗いてみると、金色の阿弥陀如来立像がありました。



椎ノ木地蔵尊の境内は決して広くありません。しかしたくさんの物があります。



まずはその名の由来と言える椎の古木です。



植物に詳しくなく本当にシイなのかどうか分からないのですが、椎ノ木地蔵と言うのですからシイの古木だと信じることにします。現在は2本あって、1本は本堂の前、1本は本堂の裏にあります。

ちなみに30年ぐらい前、ここから田奈小学校方面へ向かう道路がもう少し狭かった頃は、交差点側にせり出した大きな樹もあった気がします。

本堂の裏にある樹は鉄柵で囲まれています。



由来の案内にある、火災で焦げてしまったという樹がこれだと思います。樹齢500年とも言われるほどの大きさはありませんが、それでもまだちゃんと生きていて新芽を膨らませていました。



本堂の裏は石碑石仏の宝庫です。それはこちらにまとめました。ここでは椎ノ木地蔵にまつわる物をいくつか掻い摘んで紹介します。


馬頭観音(兼道標)

 正面: 馬頭観世音
 右側面上: {西大山道 北登戸道}
 右側面下: {天保三壬辰 九月吉日}
 左側面上: {東江戸道 南神奈川道}
 左側面下: {武州都筑□ 中恩田村 念佛講 世ハ人□□□}



天保3年(1832年)の馬頭観音ですが、道標を兼ねています。椎ノ木地蔵尊の前を通る道路は鎌倉街道のひとつであり、前にある交差点は江戸時代には交通の要衝となっていたと言われています。



▲江戸時代の道筋(裁許絵図をもとに推定)


そこに置かれていたのがこの馬頭観音の道標で、大山・登戸・江戸・神奈川へ続く道を示していたということです。


本堂へ上がる石段の右脇に手水鉢があります。



石段の左脇には石段を奉納したときの記録と思われる「石阪寄進連名」の碑と、境内の土地取得の記録である土地拂下記念碑があります。


石阪寄進連名

 正面上: 石阪寄進連名
 正面: (氏名36名)



「カモシ田」や「ナリ合」と付けられた氏名もあります。これは鴨志田と成合です。鴨志田は現在の鴨志田町、成合は現在のたちばな台から成合町辺りにあった、いずれも恩田村に隣接していた村です。


土地拂下記念碑

 正面: 土地拂下記念碑
     當地蔵堂所在ノ土地
     字西ノ谷四一六二番
     一畝十八歩ハ元官有地
     ナリシモノヲ昭和九年
     四月下記二十三名平等
     出金シ金二十五円二十銭ヲ
     以テ拂下ヲ受ケ靈験
     アラタカナル地蔵菩薩
     永久御安座ノ地ト
     ナセルモノニシテ當局
     取扱ノ便宜上発起人
     七名ノ名儀トナス
     (氏名23名)



川戸(しらとり台)の地神塔・二十三夜塔にもこれと同じ時期の、同様の内容の碑がありました。昭和9年4月頃に広範囲で土地払い下げの手続きが行われたことが分かります。

本堂の裏にも土地拂下記念碑があります。内容は先のものと全く同じで、新調する前のものだと思います。



椎ノ木地蔵との関連は分かりませんが、石段の左脇には成田山の碑があります。


成田山碑

 正面: (不動明王?立像) 成田山 (八大童子?)



成田山というのは真言宗智山派大本山の成田山新勝寺のことでしょう。

上部の像は破損が激しいですが、炎のような造形が見られることからおそらく成田山新勝寺の本尊である不動明王が彫られたもので、炎の造形は不動明王が背負う迦楼羅焔だろうと思います。また、石碑の基部に2つの像がありますが、上部が不動明王であるとすれば、不動明王の脇侍として典型的に置かれる八大童子の2名だろうと思います。

とは言っても、ここに成田山の碑がある関連はさっぱり分かりません。ここは椎ノ木地蔵のご利益を受けた方がいろいろな物を納めていく所のようなので、成田山に信仰の篤い方が寄進したのかもしれません。


【2017年4月22日追記】
毎年4月14日に供養祭が行われていて、萬福寺住職による供養読経と一般参詣があるという情報を、読者の方からいただきました。

また、追加の情報ですが、2016年頃でしょうか、境内の椎の木が無くなっていました。寂しいですね。気持ちとしては代わりの苗木を奉納したいところですが、古い根の除去など含めると結構なお金が掛かるだろうなあ。(追記ここまで)

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