椎ノ木地蔵の石仏群

田奈町37番地にある椎ノ木地蔵尊の境内には、本堂の地蔵以外にたくさんの石碑や石仏があります。



ここでは椎ノ木地蔵尊の石仏群として、それらをひとつひとつ紹介していきます。

本堂内にびっしり置かれている地蔵についてはここでは扱いませんので、椎ノ木地蔵尊のメモをご覧ください。



▲ 本堂内に置かれている地蔵


石仏群は本堂の裏側にあります。



本堂の裏に回っていくと鉄柵に囲まれた椎の古木があります。その周囲に石碑や石仏が集められています。



その数は確認したものだけで20あります。あまりにも密集しているため、石仏群の部分だけ右側に拡大して配置を示しています。

多くは馬頭観音ですが、それ以外の石仏や祠、さらには宝篋印塔や五輪塔と思われるものまで置かれています。まさに石碑石仏の宝庫なのです。



▲ 石仏群 手前から2, 3, 4, 5


▲ 石仏群 最前列左から8, 9, 10, 11、その後ろから奥に向かって12~20


1 祠

 側面: (氏名1名)



石祠です。願主の氏名以外は特に何も刻まれていません。


2 祠



半分ほど埋没しています。見える部分に文字はありません。


3 土地拂下記念碑(旧)

 正面: 土地拂下記念碑
     當地蔵堂所在ノ土
     地字西ノ谷四一六
     二番一畝十八歩ハ
     元官有地ナリシモ
     ノヲ昭和九年四月
     下記二十三名平等
     出金シ金二十五円
     二十銭ヲ以テ拂下
     ヲ受ケ霊験アラタ
     カナル地蔵菩薩永
     久御安座ノ地トナ
     セルモノニシテ當
     局取扱ノ便宜上発
     起□□名ノ名儀ト
     ナ□
 正面下: (氏名23名)



椎ノ木地蔵尊の土地取得に関する記録の碑です。元々は国有地だったところを払い下げを受けて取得した経緯が刻まれています。

これと同じ内容の石碑が本堂の前にも置かれています。後年に新しく作り直されたものです。



それによれば、欠損している最後の部分は「発起人七名ノ名儀トナス」であったことが分かります。

ちなみに、川戸(しらとり台)の地神塔・二十三夜塔にも同時期に同じ経緯で土地を取得したことを記録した碑があります。当時は恩田のあちこちでこうした動きがあったのかもしれません。


4 宝篋印塔?



文字などは確認できませんが、宝篋印塔の基壇として特徴的な返花座と格狭間を持った台石があるので、元は宝篋印塔だったとみて間違いないと思います。その上に四角い石が積まれていますが、これが正しい組み合わせで置かれているのかは分かりません。全体が残っていないのが残念です。


5 馬頭観音

 正面: 馬頭観世音



数ある馬頭観音のひとつめです。


6 馬頭観音

 正面: 馬頭観世音
 左側面: 大正十一年四月立 (氏名1名)



大正12年(1923年)のものです。台石の上に置かれています。しかしこの台石は、おそらく台石として作られたものではありません。


7 五輪塔?

 正面: [梵字アー]
 右側面: [梵字ア]
 左側面: [梵字アン]
 背面: (欠損)



6番の馬頭観音の下敷きになっている石です。角が欠けていますが形は直方体で、正面・右側面・左側面にそれぞれ[梵字アー]・[梵字ア]・[梵字アン]が刻まれています。これらは四方梵字といい、五輪塔の東・南・西・北に刻むべき[○]・[○ー]・[○ン]・[○ク]の4種類の梵字の一部です。ここで○に入っているのは「ア」なので地輪ということになります。よってこれは馬頭観音の台石なんかではなく、元々は別の石仏だった可能性が高いです。

五輪塔の構成についてはひとまずこちらのメモをご覧ください。


8 祠

 左側面: 都筑郡恩田村 志願主 (氏名1名)
 右側面: 明治十五年十月建



明治15年(1882年)のものです。


9 牛頭観音

 正面右: 昭和二十年
 正面: 牛頭観世音
 正面左: 十二月十五日
 背面: 昭和二十一年三月 施主(氏名1名)



昭和20年(1945年)のものです。ここで唯一の牛頭観音です。正面と背面に年代が2つ刻まれています。牛馬の墓碑であるとすれば追葬したのかもしれません。


10 馬頭観音(兼道標)

 正面: 馬頭観世音
 右側面上: {西大山道 北登戸道}
 右側面下: {天保三壬辰 九月吉日}
 左側面上: {東江戸道 南神奈川道}
 左側面下: {武州都筑□ 中恩田村 念佛講 世ハ人□□□}



天保3年(1832年)の馬頭観音です。



左右側面には方位と行先が刻まれて道標になっていて、かつて椎ノ木地蔵尊の北側で交差していた街道の辻に置かれていたといいます。現在の交差点がある位置よりは少し東寄りの住宅地の辺りです。



▲江戸時代の道筋(裁許絵図をもとに推定)


東 青葉台の辺りを経て国道246号線に出て江戸へ
南 しらとり台の辺りからこどもの国通りへ下りて神奈川へ
西 田奈小学校の辺りを経て長津田から国道246号線に出て大山へ
北 桂台二丁目や若草台の辺りを経て柿生から世田谷通りに出て登戸へ

現在の道で言えばこんな感じになります。


11 馬頭観音

 正面右: 明治十六年
 正面: 馬頭観世音
 正面左: 十二月□日
 左側面: 施主(氏名1名)



明治16年(1883年)のものです。


12 牛馬墓碑

 正面: 馬と牛の墓
 正面左: □□□
 左側面: (氏名1名)



牛馬の墓碑です。馬頭観音や牛頭観音として神格化して表現されることが多い牛馬の墓ですが、この碑はとてもストレートでした。

ちなみに死牛馬の埋葬場所は決められていたので、墓碑といってもその下に埋めたケースは少なかったと考えられ、大切にしていた牛馬を弔うための供養碑や記念碑の意味が強いと思います。


13 馬頭観音

 正面: 馬頭観世音
 左側面: (氏名1名?判読できず)



14 念仏講碑

 正面右: 施主下恩田村
 正面: 念佛供養佛
 正面左: 大谷女講中
 右側面: 天明□□□年 十一月二日立□



年代がはっきり読み取れませんが、天明六(1786年)か天明八(1788年)だと思います。直方体の石で上面に丸い突起があります。おそらく上に別の石を積んで組み合わせるための加工だろうと思います。五輪塔のようなものの一部かもしれません。

内容を見ると念仏講のもののようです。大谷というのは現在の田奈駅前交差点から榎が丘方面へ向かう道の、榎が丘に登り切る手前の辺りです。


15 馬頭観音

 正面: 馬頭観世音菩薩
 正面左: 大正二年三月吉日 (氏名1名)



大正2年(1913年)の馬頭観音です。大理石で彫られた珍しいものです。馬の墓であるとすれば、さぞ大切にされていたであろうことが伺えます。


16 笠石?



何かの石碑の笠だと思います。近くにあるものでは14番の念仏講碑かと思いましたが、直接組み合わさるような形にはなっていませんでした。


17 馬頭観音

 正面右: {大正十五年三月十七日 大正十四年一月廿八日}
 正面: 馬頭観世音
 正面右: 建主(氏名1名)



大正14年(1925年)のものです。少し異なる筆跡で大正15年(1926年)の年号も刻まれています。


18 馬頭観音

 正面: 馬頭観世音



19 馬頭観音

 正面右: 昭和二年十月十七日
 正面: 馬頭観世音菩薩
 正面左: (氏名1名)建之



昭和2年(1927年)のものです。


20 馬頭観音

 正面: 馬頭観世音
 正面左: 昭和八年十一月十九日 (氏名1名)



たくさんになりましたが、これで全部です。


なぜここにこれだけ多くの石碑や石仏が集まっているのでしょう。そのヒントが榎が丘48番地にある墓地にあります。



榎が丘第三公園の隣にあるこの墓地は、一般的な分譲霊園でもお寺の墓地でもありません。

墓地の入り口に記念碑があります。



その内容を引用します。

この墓地は恩田第四土地区画整理事業の施行にあたり地区内に点在していた16ヶ所の墓地を集合したものである
昭和43年3月17日移転を完了し開眼式を行った
同時に榎が丘墓地管理会を設立し今後の管理を行うことを決めた


恩田第四土地区画整理事業は昭和40年(1965年)から昭和46年(1971年)にかけて、現在の松風台の南西側・榎が丘の西側・田奈町周辺の一帯を宅地化した事業です。その地域にあった墓地がここに集められたわけです。



▲ 恩田第四土地区画整理事業用地と用地内にあった主な墓地


昔は屋敷や集落に付帯するように墓地を作りましたし、牛馬の墓碑や稲荷も各屋敷の敷地に建てました。区画整理未実施の地域ではそのような状況が現在もよく見られます。

恩田第四土地区画整理事業では、元々あった屋敷や集落を一旦立ち退かせて宅地造成をしました。このときに人間の墓が集められたのが榎が丘墓地です。

おそらく、それと同様に馬頭観音や屋敷神などが集められた場所が椎ノ木地蔵尊の境内ではないかと思います。そこに混じって置かれている宝篋印塔や五輪塔と思われるものは、もしかすると誰の物か分からなくなった古い時代の人の墓石や供養塔かもしれません。

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