石塔坂(田奈町)の宝篋印塔・五輪塔

旧大山街道の石塔坂の供養塔を少し上ったところにある寿光院の墓地に古い宝篋印塔と五輪塔があります。田奈町1番地の一角です。



室町時代に作られたもので、ここが石塔坂と呼ばれた由来となったであろう石塔です。


寿光院の墓地の下を通る道へ入ります。江戸時代の頃大山街道だった道です。



国道246号線に突き当たる手前の丁字路のところに階段があります。



寿光院の墓地にはいくつかの登り口がありますが、中では繋がっていないのでこの階段からでないと宝篋印塔や五輪塔の場所にはたどり着けません。

階段を上ると新旧大小さまざまな墓碑が立ち並んでいます。



その奥に何本か樹が生い茂っているところがあります。



よく見るとその下に石塔が並んでいます。

糟屋氏の供養塔とも呼ばれる、石塔坂の宝篋印塔と五輪塔です。



宝篋印塔2基と五輪塔2基の合わせて4基の石塔が並んでいます。


新編武蔵風土記稿に次の記述があります。

村の南相州道の内、石塔坂と云所にあり、登ること三丁許、半腹に五輪の塔あり、故にこの名ありと云、土人の伝ふる所は昔粕屋某と云もの当村に住せし頃、隣村長津田村の地頭某婚属なりしが、それらの人々をここに葬りし古墳なりとぞ、其五輪の臺石に鐫る文左にしるす、奉読誦法花妙典一千部、成就為判用道印十三忌、乃至利益不限而已、孝子相州恩田住 粕屋淸印(敬白)、元亀四癸酉天三月五日、


相州道というのは大山街道のことです。

江戸時代の大山街道がどこを通っていたか、裁許絵図などの資料から比定してみると下の図のようになります。



ちょうどこの場所の横の辺りを通っていたようです。なので大山街道を通る人々の目に触れ、ここが石塔坂と呼ばれるようになったのだと思います。


さて、いつものように石に刻まれた内容を見ていきます。が、石の周囲が狭く全ての面を見ることができなかったので緑区石造物調査報告書などの文献を参考に補完しながら書いていきます。

まずは宝篋印塔です。宝篋印塔の一般的な説明はこちらのメモをご参照ください。



宝篋印塔(右)

塔身西側: [梵字バン?]
基礎西側:
     奉読誦
     法花妙
     典一千
     部成就

塔身北側: [梵字バク]
基礎北側:
     為妙永
     禅尼十
     三回忌
     乃至利

塔身東側: [梵字バ]
基礎東側:
     益平等
     而已
     孝子武
     刕恩田

塔身南側(正面): [梵字バー]
基礎南側:
     住糟屋
     清印{敬白}
     元亀四{癸酉}天
     三月八日


宝篋印塔(左)

塔身東側: [種字タラーク(宝生如来)]
基礎東側:
     奉読誦
     法花妙
     典一千
     部成就

塔身南側(正面): [種字キリーク(阿弥陀如来)]
基礎南側:
     為判用
     道印十
     三回忌
     乃至利

塔身西側: [種字アク(不空成就如来)]
基礎西側:
     益不限
     而已
     孝子武
     刕恩田

塔身北側: [種字ウーン(阿閦如来)]
基礎北側:
     住糟屋
     清印{敬白}
     元亀四{癸酉}天
     三月五日


右の宝篋印塔の塔身には五輪塔の水輪に刻む四方梵字と思われる[バ]系列の文字が刻まれています。一方で左の宝篋印塔の塔身には金剛界四仏の種字が刻まれています。但し方角はずれています。


基礎に刻まれた内容は左右同じ流れで、次の2箇所だけ異なっています。

妙永禅尼/平等 (右)
判用道印/不限 (左)



▲ 左の宝篋印塔の基礎(南側)


基礎に刻まれた内容からこの宝篋印塔の意味が読み取れます。

恩田に住んでいた糟屋清印という人物が元亀4年(1573年)3月5日、2名の死者の13回忌で法華経1000部を読み供養したという内容です。都筑の丘に拾ふによれば、2名というのは両親で、妙永(右)が母、道印(左)が父と解釈されているようです。

なお、糟屋清印という人物については新編武蔵風土記稿に 『隣村長津田村の地頭某婚属』 という記載があることから、長津田村の領主岡野氏の配偶者だった人物と考えられます。


次に五輪塔を見てみます。五輪塔の一般的な説明はこちらのメモをご参照ください。



五輪塔(右) 地輪・水輪のみ

地輪南側(正面)中央: [梵字ア]
地輪南側(正面):
     □□□□
     □□□□
     千部成就
     為妙永禅

地輪西側中央: [梵字アン]
地輪西側:
     定尼十
     三年忌證
     大菩提也
     乃至□□

地輪北側中央: □
地輪北側:
     利益□□
     護持□
     □□□□
     □□増長

地輪東側中央: □
地輪東側:
     願円
     元亀四年
     {癸酉}三□
     孝子□□


五輪塔(左) 地輪・水輪・風輪・空輪のみ

地輪南側(正面)中央: □
地輪南側(正面):
     □□大乗
     □□千部
     □□□□
     定門

地輪西側中央: [梵字アン]
地輪西側:
     □□□□
     □□□□
     乃至法界
     平等利益

地輪北側中央: □
地輪北側:
     施主
     武刕都筑
     郡恩田郷
     糟屋清印{敬白}

地輪東側中央: [梵字ア]
地輪東側:
     元亀□□
     □□□□
     □□□□
     □□□□



▲ 右の五輪塔の地輪(南側)


▲ 左の五輪塔の地輪(南側)


地輪に刻まれた内容は破損が酷く読み取れる文字は少ないですが、飛び飛びにある文字から推測すると宝篋印塔と同様の内容のようです。右の五輪塔には「妙永」の文字が読み取れるので、右の宝篋印塔と同じく母の供養のためのものです。とすれば左の五輪塔は父のものだと推測できます。

宝篋印塔も五輪塔も元亀4年(1573年)3月の日付が刻まれていますので同時に建てられたということになりますが、この日付が単に13回忌の命日を表すだけのものであれば、石塔は別々の年代に建てられたかもしれません。


これらの五輪塔は一部の石が失われています。例えば左の五輪塔は火輪の石だけが無いのですが、近くにそれらしき石が置いてあります。



形といい火輪を表す[梵字ラ]といいこれが火輪であることは間違いないのですが、この五輪塔のものであるかは分かりません。


ところでこれらの石塔が建っている場所が寿光院の墓地内であるということをもう一度書いておきます。寿光院は文明10年(1478年)に興ったといわれる古いお寺で、寿光院の五輪塔の記録によれば元亀4年(1573年)の頃は第4世の頼順法印の代にあたります。当時の寿光院はこんな立派な墓碑が立ち並ぶ壮大なお寺だったのかもしれません。


参考文献:
緑区石造物調査報告書(1)
田奈の郷土誌
都筑の丘に拾ふ

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