長谷(松風台)の石仏群

恩田で石碑石仏というと区画未整理の地域にあることがほとんどですが、大谷戸の庚申塔然り、区画整理された住宅地に紛れ込んでいるものもあります。そうなっていると散歩コースにもならず却って目に付かないものです。

昔は長谷(ながやと)と呼ばれた地域の隅にあたる、松風台27番地の住宅地の中に石仏群があります。



地元の方の話では昔、この辺りに塚があったといいます。享保5年(1720年)の裁許絵図を見ると塚と思われる黒点の印があり、かなり昔からあったことが分かります。

宅地造成前の航空写真を見ると、ちょうどその場所にそれらしいものがあります。



▲1947年(昭和22年)ごろ
出典: 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 空中写真 USA-R1052-201 (加筆)


▲1974年(昭和49年)ごろ
出典: 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 空中写真 CKT-74-15_C42_3 (加筆)


椎木地蔵尊の前を通って桂台のほうへ向かう鎌倉路沿いに塚のような地形が見て取れます。

現在はその位置から10mほど北東側へずれたところに石仏群があります。これが塚にあったものか確たる証拠は得られませんでしたが、塚に由来しそうなものもいくつかありました。


昔の鎌倉路に沿って作られた現在の道路です。



一見するとただの住宅街に見えます。

しかしよく注意して見ると建物の間に通路があり、奥に鳥居が見えます。



鳥居があるということは神社か屋敷神の類でしょうか。僅かな境内があります。



鳥居は木製のものです。木製としては相当に立派なものに見えますが、額束は無銘です。

境内には6つの石碑が並んでいます。



左側から順に見ていきます。


馬頭観音

 正面右: 大正十二年七月吉日
 正面中央: 馬頭観世音菩薩
 正面左: (氏名1名)



1923年(大正12年)のものです。よく見られるタイプの馬頭観音の碑です。


石祠

 左側面: (氏名3名)
 右側面: 大正十二年七月 吉日立之



馬頭観音と同じく1923年(大正12年)に建てられた石祠です。


供養塔

 正面: 南無妙法蓮華経
 右側面: 願以此功徳普及於一切
 左側面: 我等與衆生皆共成佛道
 背面: {古戰死者 七塚ノ内} 昭和十年十一月吉祥日



南無妙法蓮華経の題目が刻まれた1935年(昭和10年)の碑です。左右側面と背面に刻まれた内容から、おそらくは供養塔であることが伺えます。

背面に「古戰死者七塚ノ内」と刻まれています。



この碑がこの近くにあった塚に由来するものだとすれば、いわゆる戦国時代の戦で命を落とした者を葬ったもので、7つの塚(墓)があったのかもしれません。

「願以此功徳普及於一切我等與衆生皆共成佛道(がんにしくどくふぎゅうおいっさいがとうよしゅじょうかいぐじょうぶつどう)」とは真言宗の廻向文と呼ばれるお経です。


 左側面: (氏名1名)
 右側面: 奉祭 明治廾九年十一月



1896年(明治29年)の石祠です。


地蔵菩薩像

 正面: (地蔵菩薩立像)
 左側面: 施主 (氏名5名)
 右側面: 昭和十六年四月建之



1941年(昭和16年)のものです。主尊の容姿から地蔵菩薩像と思われます。


万霊供養塔

 正面: 法界万灵有無両縁等
 左側面: (氏名1名)立之
 右側面: 明治四十年十一月吉日



西暦1907年(明治40年)のものです。「㚑」は「霊」の異体字です。つまりこの世界の全ての霊を供養するものです。これは古戦死者のような、今となってはどこの誰とも分からない不特定多数の死者の供養と解釈できます。


以上6つの碑がありますが、うち2つの供養塔がこの近くにあった塚と関連がありそうに思います。

塚といえばここから中恩田橋方面へ分かれる旧鎌倉街道を下りていくと、そこには新編武蔵風土記稿に「古へ乱世の頃うえて死せるものを葬むる」と伝えられた餓鬼塚があります。ここにある石碑はいずれも明治後期以降の比較的最近に建てられたものですが、塚自体は餓鬼塚と同様に古い時代のものかもしれません。


境内を出るとき鳥居の近くで日付だけが刻まれた石板を見つけました。



ただ置かれているだけでその意味は分かりませんが、時期的にみてこの境内あるいは付随する何かの竣工を記念したものではないかと思います。

このメモをシェアする

       

このメモにコメントを書く

コメントは筆者だけに送信されます。