鍛治谷(恩田町)の庚申塔・馬頭観音・板碑

今回は、道端の野仏ではないのですが、恩田町の鍛治谷(かじやと)で珍しい石仏を見ることができたので、恩田の石仏として紹介してみようと思います。

そこには庚申塔と馬頭観音、そして由緒不詳ですが2枚の板碑があります。


徳恩寺の前から続く通りを子野辺神社のほうへ向かって進んでいくと、あかね台鍛治谷公園の前を通り過ぎる辺りで井戸久保と鍛治谷の境に差し掛かります。



この通りの右側にせり出している尾根を見上げると、石造の鳥居が見えます。



屋敷神のようですが、よく見ると境内にちらほら石仏のようなものが見えます。このようなサイトをやっていると当然のように興味が沸くもので、手が届かないともどかしい思いをします。今回は幸運なことに、この敷地にお住まいの方のご好意で詳しく見せていただくことができました。



庭先を案内され、尾根の登り口に辿り着きます。



近くで見ると結構な急斜面で、ここからはつづら折りに取り付けられた石段を登ります。

石段を登りきると僅かな平地があり、入り口に鳥居があります。屋敷神にしてはかなり立派な石造の鳥居です。



元々は木造の鳥居だったものを建て替えたそうです。

奥に小さな社があります。そして写真では僅かにしか見えませんが、鳥居の右側に庚申塔、左側に馬頭観音があります。


庚申塔

 正面右: {奉造立阿弥陀如来 為庚申供養二世諸願}□也
 正面中央: [種字キリーク] (阿弥陀如来立像) (蓮座) (三猿)
 正面左: 元禄九丙子十一月七日{上恩田村 同行九人}


鳥居の右側に置かれている元禄9年(1696年)の庚申塔です。文字にも刻まれているとおり阿弥陀如来の庚申塔で、上部には阿弥陀如来の種字キリーク(一部は欠損)も刻まれています。庚申塔で主尊を阿弥陀如来とするものは珍しく、恩田エリアに現存する中では唯一のものかもしれません。

同行9人と刻まれているので、鍛治谷周辺の庚申講で建てたものだと思います。


馬頭観音

 正面右: 元治元甲子年
 正面中央: 馬頭観世音
 正面左: 十一月吉日


鳥居の左側に置かれている元治元年(1864年)の馬頭観音です。文字のみを刻んだもので、馬頭観音としてはよくあるタイプです。

境内には他に記念碑などが置かれていますが、ここでは割愛します。

正面の社の中にもいろいろ置かれているので、こちらも参考に見せていただいたきました。



宝篋印塔の相輪と思われるものが五輪塔の空輪のようなものに重ねて置かれています。元々はそれぞれ存在していた石仏のパーツだろうと思います。

その他自然石や石棒など・・・と見た左奥に思わぬものを見つけました。板状の石が何枚かあります。この形、板碑です。割れていますがパーツは揃っていそうなので復元を試してみました。



板碑は2枚あったようですが復元できたのは1枚だけで、もう1枚は下部のみが残っている状態でした。復元できたものについてメモしておきます。


板碑

 正面右: 貞治三
 正面中央: [種字キリーク] (蓮座)(花瓶)
 正面左: 八月


貞治3年(1364年)の板碑です。板碑というのは石造の卒塔婆です。一般には鎌倉時代から戦国時代に作られたものが大半で、その後は木製の卒塔婆に移り変わって姿を消します。これはその間の南北朝時代のもので、足利氏が立てた北朝の元号が刻まれています。

造立年月以外の内容について、この時代の板碑に阿弥陀如来を示す種字「キリーク」が刻まれているのはお約束みたいなものなので特別な信仰や意味は無いだろうと思います。蓮座で装飾したり、蓮の花瓶を供えるように描くのも同様に定型文的なものです。

しかし板碑形式の石仏自体が全体として数が少なく大変貴重なもので、700年近く昔のものがこうして保存されていることは幸いなことだと思います。ご主人によれば、この板碑は静岡県で産出した硬質の石で作られたもので、そのため風化を免れているのだろうということでした。

ちなみに恩田エリアには他に、田奈小学校に保存されている2枚の板碑など僅かだけ現存しています。

このメモをシェアする

       

このメモにコメントを書く

コメントは筆者だけに送信されます。