萬年寺

700年ほど前の昔、恩田には萬年寺(萬念寺)というお寺がありました。

山号を含めた寺名は、霊鷲山松栢萬年寺(りょうじゅさんしょうはくまんねんじ)として伝わっています。一般に院号となる松栢のところに「院」は付かないんですね。萬年禅寺という文字も残っているので、禅宗(臨済宗や曹洞宗など)のお寺だった可能性がありますが、禅宗でなくても禅寺と呼ぶことがあったようで、定かではありません。このお寺に関しては伝承や遺物がいくつかあり、かつて存在したことは確からしいのですが、現在ではどこにあったのかも分からない、謎の多い廃寺となっています。


新編武蔵風土記稿には、次のように記されています。

萬年寺と唱ふるは、村の南の方にあり、禅念寺と云は西北の方にありて(※)、今は何も字にのみ残れり、むかし戦争の頃萬年寺にある鐘を、陣中へうばひ行て、陣鐘に用ひ、後相州鎌倉郡瀬谷村妙光寺へ持行て今にあり
※ 萬年寺と禅念寺の位置関係が逆転していて、誤植と思われる

新編武蔵風土記稿が書かれたのは江戸時代の文化文政の頃(1810年頃)です。このとき既に地名(字)にしか残っていないと書かれていることから、だいぶ古い時代に廃れたものと考えられます。


このお寺の遺物と思われる物がふたつ残っています。

ひとつは徳恩寺にある聖観音像で、萬年寺が廃寺となったときに徳恩寺に引き継がれたものではないかと言われています。もうひとつは瀬谷区の妙光寺にある梵鐘で、萬年寺から質に取られたものが後に妙光寺へ寄贈されたとされています。現在ではこれらふたつの遺物が萬年寺の謎を探る主な手がかりとなっています。

聖観音像については、都筑の丘に拾ふにて次のように考察されています。

同じ恩田町に徳恩寺(真言宗)があって聖観音を安置する。此聖観音は小机三十三所の第二十三番で其御詠歌に
鷲の山絶えぬみのりは万年寺仏の御恩頼もしきかな
と云ふ。此歌は万年寺を謳歌したもので、鷲の山は万年寺の山号霊鷲山をとったものであって徳恩寺の御詠歌として作られたものではないことは明らかである。何故に徳恩寺の観音に対して斯る御詠歌があるのであらふか。凡そ御詠歌なるものには、西国にしろ坂東秩父にしろ其札所寺号を詠込まれて居るのが通例である。之を手近で同じ小机札所を例にとると、
第一番泉谷寺のには、いづみが谷で・・・
第五番聖観寺には、ほうみを聖観寺
第六番隋流院には、かの隋流の・・・
第七番本覚寺には、本覚の・・・
第十五番西方寺には、極楽の西方寺
などと沢山あるのである。然るに此調和を欠て居るものがある。例を第九番にとると、此御詠歌は
唯頼め願も遂に神奈川の浦島かけて深き思を
で之は子安に在った浦島観音の称讃であって今の慶運寺のものではない。浦島寺が廃絶して本寺慶運寺に観音が移ったことは周く知られておる事である。此例から見ても徳恩寺は万年寺の観音を引継いだものと云へる。

梵鐘については、梵鐘そのものに経緯が刻まれています。

武州恩田霊鷲山松栢萬年禅寺者
行基菩薩草創渉歳時也久矣招提既為
大士之建剏寺基又為勝概之霊區茲者
住山道周檀那廣鑑共悲虡無器日夕驅
馳遂造巨鐘可以警窹寐可以齋動
止非唯迎蟾送烏之模範亦乃洗心
息苦之號令也即耳處而證圓通是
殊為最素願應時既成持報徳豈可

得而説乎為之銘曰
邢器斯立 中虗外圓 聲塵遠到
遥聞九泉 息彼輪苦 成此大緑
宣明破晦 鄺誦勤禅 檀信景仰
寺門安然 佛日赫々 王道平平
于時正中貳年乙丑三月十七日
萬年禅寺住持比丘道周謹題
大檀那菩薩戒弟子廣鑑

大工物部守光

南瞻浮州大日本國中
相州瀬谷郷住藤原
朝臣山田伊賀入道
經光雖執倍々利潤
質本主依置流之為
大檀那奉寄進妙光寺矣
于時寳徳四年壬申卯月十六日
大工和泉守恒國



▲妙光寺の梵鐘(元・萬年寺の梵鐘) 神奈川県重要文化財


この内容からは、この梵鐘が恩田の霊鷲山松栢萬年禅寺の梵鐘で、萬年寺住職の道周と檀家の廣鑑によって正中2年(1325年)3月17日に造られたこと、そして瀬谷郷の藤原朝臣山田伊賀入道經光が質として取り、宝徳4年(1452年)4月16日に妙光寺に寄進したことが分かります。

この梵鐘には他にもいろいろな話があるので、別のメモで改めてご紹介したいと思います


萬年寺の伝承は、恩田と瀬谷区に同様のものがあります。

以前、「まんが日本昔ばなし」というテレビ番組で「万年寺のつり鐘」というエピソードが放送されたことがあります。私が子供の頃のことですが、地元の地名が出てきたことにびっくりして、食い入るように観たことを憶えています。

その内容は次のように記憶しています。

昔むかし、横浜の恩田というところに万年寺というお寺がありました。住職は大変な囲碁好きで、鐘も衝かずに囲碁に明け暮れる毎日でした。あるとき、村の碁会に招待されて勝つと、負けた者からお金を貰いました。賭け碁だったのです。味をしめた住職はそれから賭け碁に夢中になり、ますます寺の勤めをほったらかすようになりました。そして、このときから何故か全く勝てなくなりました。寺の物を片っ端から売っては負けの支払いに充て、寺は荒れ果てる一方でした。ある日、寺に物乞いがやってきて金を恵んでくれと懇願しました。金が無いと断っても何度も訪ねてくるので、勝手に探して持っていけと言い放ちました。すると物乞いは居なくなりましが、鐘がなくなっていることに気付きました。カネはカネでもつり鐘を持って行ったのです。その後住職の行方も分からなくなり、万年寺も廃れてしまいました。

梵鐘の内容に賭け碁の要素が加わった内容となっていますが、実はこの追加要素は渡辺崋山の「游相日記」に記されている内容です。渡辺崋山は恩田に立ち寄った後瀬谷を訪れ、妙光寺の梵鐘についての伝承を耳にします。

瀬谷村武州鶴間南ニアリ寺アリ。妙光寺云フ。正中年中鋳造スル所ノ鐘アリ。舊恩田村万年寺ノ鐘ナリシヲ今ハ此寺ニアリ。昔伊賀入道経光ト云人恩田万年寺主ト碁テアラソヒシ時此鐘ヲ掛モノニ出セシニ入道勝ヲ取リ鐘ヲ我香花寺妙光二移スト云。伊賀入道城趾恩田ニアリ。

游相日記が書かれた天保2年(1831年)に、既にこの昔話が出来上がっていたことが分かります。あるいは事実を知る人々の言い伝えだったかもしれません。


さて、萬年寺がどんなお寺だったかご理解いただいたところで、その存続年代を考えてみます。

梵鐘に刻まれている内容は前半と後半に分かれます。前半はこの梵鐘が萬年寺のために造られたことが記されています。そしてその銘は正中2年(1325年)3月17日。ですから萬年寺はこれ以前に存在していたことが分かります。実は行基菩薩(668年-749年)の草創とも刻まれているのですが、それは寺の創建に関するよくある宣伝文句なので、敢えて無視しています。ただし堂々とそう言ってもバレないぐらい前からあったという解釈はきるかもしれません。

そして後半はこの梵鐘が妙光寺に寄進された経緯が追刻されています。そしてその銘は宝徳4年(1452年)4月16日。なので少なくともその前後までは存続していたと推測できます。

戸倉英太郎の「都筑の丘に拾ふ」にある考察では、小机三十三札所の御詠歌が作られたのが宝暦の頃(1764年頃)であるとの推定を根拠に、宝暦年間までは存続していただろうと推測しています。しかし私はこれに懐疑的です。元禄2年(1689年)年に作られた成合村恩田村裁許絵図に描かれていないからです。正確な現状を記す必要があった裁許絵図に載っていないということは、それ以前に廃絶していたのではないかと思います。

よって、萬年寺の存続年代として確度が高いのは、梵鐘にある正中2年(1325年)から宝徳4年(1452年)前後までと考えます。


萬年寺の御詠歌

  鷲の山 絶えぬみのりは万年寺
    仏の御恩頼もしきかな

この歌も、萬年寺が絶えて残された聖観音を前に、それでもなお、絶えず恩田に実りをもたらした萬年寺を偲んで詠まれたようにも思えてきます。いかがでしょうか。


次に、この萬年寺がどこにあったかを考えてみます。

新編武蔵風土記稿に「今は字にのみ残れり」と記されているとおり、恩田には万年寺(字地書上では「万念寺」)という地名があり、昭和の初めまで使われていました。

恩田の地図にも載せているとおり、白山谷の隣にある万年寺谷がそれです。なのできっとその谷戸に萬年寺はあったのだろうと思います。



では具体的に谷戸のどこにあったのでしょうか。これを本気で調べるには発掘調査をしなければなりませんが、恩田メモにそのような力はありません。なので資料や取材から推定してみることにします。

まずは裁許絵図を元に、江戸時代の頃の地形と道筋(周辺のみ)を描いてみました。萬年寺があった当時の地形がこれと大きくは変わらないだろうとの仮定で考えます。



寺の境内とするにはそれなりの広さの平坦な土地が必要です。そして寺が寺として機能するには参道も必要です。なので上の図で緑が薄い部分、つまり傾斜地でない部分の、どこかの道沿いにあったのではないでしょうか。例えば青いマルで囲った辺りです。

周辺の地元の方にも訊ねてみました。その結果、証言はいろいろでした。まったく分からない。山の上のほうにあったらしい。谷戸の奥のほうにあったらしい。・・・何しろ遠い昔に廃れたお寺なので具体的な証拠がありません。当然とも言える結果です。

ひとつ有力だった情報は、参道だった辺りの畑からはよく人骨が出土した、という証言です。これは萬年寺の墓地がそこにあったことを示唆しています。

これを踏まえて、萬年寺谷の空中写真を使って跡地と思しき場所を3箇所を挙げてみます。



出典: 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 空中写真 MKT706-C4-5(加筆)


(1) 山の上
(2) 谷戸の奥
(3) 谷戸の途中の右側

(1) 山の上: これは「山の上」証言と古い道筋に基づいた推定です。参道を入り墓地を過ぎ、谷戸の一番奥まで進んだ山の上に僅かな平坦地があります。ここに本堂があったと考えます。この山の北側には大寺谷という地名も残っていて、それが萬年寺由来の地名だとすると、そちら側からの裏参道もあったかもしれません。梵鐘に刻まれている「勝概之霊區」は美しい景色の境内と解釈できるので、見晴らしのよい高台だったかもしれません。鐘の音も上恩田の広い範囲に届いたでしょう。

(2) 谷戸の奥: これは「奥のほう」証言に基づいた推定です。さすがに山の上まで登るのはしんどいので、参道を入り墓地を過ぎ、谷戸の奥まで進んだ平坦地に本堂があったら助かります。現在は住宅が建ち、その裏に僅かな平坦地が残っています。谷戸の奥で周囲を山に囲まれるため、鐘の音は遠くに届きません。

(3) 谷戸の途中の右側: これは谷戸の中にある道と現地を見て私が「あ、ここちょっと良いかも」と思った勘による根拠の無い推定です。参道を入り、途中の開けたところで右に曲がると、一段上がったところに平坦地があるのでここを本堂にしましょう。墓地は本堂の眼下にあり目が行き届きます。白山谷へ農作業に出た人々にも鐘の音が聞こえるでしょう。

いずれにしても万年寺谷のどこかにあったことは間違いないと思います。


最後に、現地を歩いてきたレポートを書いておきます。

万年寺谷の入り口です。



横浜青葉ガーデンの南側からすみよし台に抜ける道の途中にあります。

谷戸の中には住宅が立ち並んでいます。



周辺の谷戸のなかでも特にこの谷戸だけ住宅が多く立ち並んでいます。

根拠は分かりませんが、萬年寺があった当時、この周辺には500を超える家があり、多くの人々が暮らしていたという話を度々聞きます。

谷戸に入ります。左側は住宅、右側は山です。



この道はほぼ昔の参道です。

途中で右側が開けます。



ここが推定(3)の場所です。太平洋戦争時代は恩田倉庫の建物が並んでいた場所で、直線的な区画に造成した名残が見て取れます。それ以前はここまできれいな造成地ではなかったと思いますが、寺を建てるぐらいはできそうな広さがあります。

谷戸の奥に進むとだんだん道が狭くなってきます。



そして恩田倉庫の防空壕に突き当たって行き止まります。



ここが推定(2)の場所です。住宅の裏には僅かな平坦地が残っています。

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