禅念寺(恩田町)の板碑

現在JA田奈があるところは昔、恩田が田奈村の一部だった頃には田奈村の村役場がありました。



その頃既に現在の横浜市立田奈小学校の前身となった学校もあり、この辺りは村の中心地でした。

さらに昔、江戸時代よりも昔にはこの辺りのどこかに禅念寺(ぜんねんじ)というお寺があったと言われています。お寺が無くなってからもその名は地名に残り、昭和の初めまでこの辺りは禅念寺(または善念寺(ぜんねんじ))と呼ばれていました。

いつの頃か分かりませんが、この辺りのどこかから板碑が2枚出土したそうです。板碑というのは中世に盛んに造られた石製の卒塔婆のことです。

下の写真は鍛治谷のあるお宅にある別の板碑ですが、板碑がどんなものかという参考として載せておきます。



鍛治谷の板碑(個人蔵)


禅念寺で出土したという板碑2枚はその後田奈小学校に寄贈され、郷土資料として保存されています。



実は私は、田奈小学校に在学していました。なので当時郷土資料室にあった実物を見たことがあるのですが、今となってはどんなものだったか具体的に思い出せません。メモを書くにあたって、また今後の資料として利用するため、いま再び田奈小学校を訪れることにしました。



昔は誰でも校内に入れたものですが、近年はいろいろと厳しくなりました。インターホンで約束の用件を伝えて門を開けてもらいます。



校内の様子は私の在学当時とほとんど変わっていません。懐かしさにあれこれと徘徊していたところ、副校長先生が出迎えてくれました。

そして早速お話を伺ったところ、郷土資料室というものは既に廃止していて、ほとんどの資料は博物館などに寄贈したのだそうです。そう言えば東急田園都市線田奈駅の前にあった東急多摩田園都市まちづくり館にもその一部がありました。

そう聞いて心配なのが目的の板碑ですが、幸いそれは他に移されることなく廊下のショウケースで展示しているということで、実物を見せていただきました。そして恩田メモの研究資料として写真も撮らせていただいたのですが、残念ながら写真の公開はNGということなので、写真からのスケッチで紹介します。


板碑(左)

 正面右: 應安二□
 正面中央: [種字キリーク] (蓮座)(花瓶)
 正面左: 二月日

板碑(右)

 正面中央: (丸の中に不明の模様) (蓮座状の模様) □□□



▲禅念寺の板碑 白抜きの部分はタグで隠れていた部分


左の板碑は応安2年(1369年)のものです。水平な2本線の下に阿弥陀如来を示す「キリーク」の種字が刻まれ、蓮座、花瓶という内容が刻まれています。これは板碑の形式として一般的な内容です。

一方、右の板碑は簡素な内容で、中央には丸で囲った謎の模様が刻まれています。丸の下についている5本の線は蓮座を模したものだろうと思いますが、実のところよく分かりません。丸の部分と合わせて髑髏のような形の模様なのかもしれません。その下にはいくつか文字と思われる内容が刻まれていますが、摩損によって不明瞭で何が刻まれているのかは分かりません。

2枚の板碑は石質が異なります。左の板碑は灰色の石でできていて、右の板碑は少し青み掛かった石でできています。つまり石の産地が異なります。そこから推測するに、別々の人によって、あるいは別々の時代に作られたものではないかと思います。

これらの板碑は禅念寺という場所で出土したと言われていますが、それが具体的にどこで、いつだったのかはっきりしていません。さらに禅念寺というお寺の遺物であるかどうかもはっきりは分かっていません。


ところで田奈小学校の副校長先生から伺った話では、この板碑もいずれは博物館などに寄贈することを検討中で、役所などと協議しているそうです。実はこの取材を行ったのが2015年11月のことです。もしかしたら既に田奈小学校には無いかもしれません。

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