片町(長津田一丁目)の石仏群
そろそろ恩田エリアの路傍にある石碑石仏は網羅したかな。ということで、少しだけ恩田村の外側にもメモを伸ばしてみることにしました。あまり踏み込むと大変なので、村の境から少しだけ、までです。恩田メモですから。
国道246号線の恩田川を渡って長津田方面へ行くと、片町という交差点があります。
この辺りは大山街道(矢倉沢往還)にあった宿場、長津田宿の東の外側でした。宿場の中心部と違って街道の片側にしか町並みが無く、それで片町と呼ばれるようになったと言われています。長津田村の字地書上によると、明治期になって周辺の字と合併したうえで柳町という地名に変わりましたが、結局現在はそれ以前から親しまれていた片町という地名のほうが残っているのです。
この片町交差点と恩田大橋のちょうど中間の辺りにある細道に、石仏群があります。片町の石仏群と呼ぶことにします。緑区長津田一丁目23番地の一角にあります。
図中にAとBの2地点があることについては、後ほど説明していきます。
国道246号線の北側に、鬱蒼とした林に入っていく細い道があります。
ここが片町の石仏群への入口です。
坂を上っていくとすぐに道が鋭角に折れ曲がっていて、その曲がり角の路傍に2体の地蔵像と角塔があります。
さらにその向かいの斜面には二十三夜塔があります。
斜面の上には昔あった民家への入口と、脇の崖下に防空壕と思われる洞があります。
実は、これらは2014年5月頃に訪れたときの写真です。
最近になって再び訪れてみたところ・・・。
路傍にあった石仏が姿を消していました。二十三夜塔も無くなっていました。
辺りを見回してみたところ「開発事業のお知らせ」という掲示を見つけました。
どうやらこの場所一帯が宅地開発の用地になったようです。しまった。撤去されてしまったか。
しかし開発に先立って姿を消したということは、どこか別の場所に移して保存されているに違いありません。そうであってください。
石仏群があった坂道をさらに進んでいくと、大きなクヌギの並木道になります。
もしかするとこの道は長津田宿の裏手に回るための大山街道の裏通りだったのかもしれません。古い地図を見てみると、丘の上に広がっていた畑地を通って現在の長津田駅の辺りに続いていたようです。
丘の上まで登りきったところに、横浜市の名木古木指定樹が4本ほどあります。
横浜市が公開している名木古木指定樹木一覧によると、樹齢210年のクヌギと樹齢160年のクスノキと鑑定されています。つまり江戸時代の文化年間のクヌギと天保年間のクスノキということです。大山街道の枝道だったという推測もあながち間違ってはいないかもしれません。
ここで登ってきた方向を振り返ると隣には駐車場があり、その奥に墓地があります。
姿を消した石仏群は墓地の傍らに集められていました。
石仏群付近のここまでの地図を描きました。
石仏群が元々あった場所が図中の地点A、現在の場所が地点Bです。
地点Bには7つの石碑石仏が置かれています。一番奥の7つ目は現代の墓碑のようなので、それ以外の6つを左側から順にメモします。
庚申塔
正面: (青面金剛立像)(三猿)
欠損が激しいですが、残った尊像の部分と三猿の彫刻から、庚申塔と考えられます。造立年代は分かりません。
「緑区石造物調査報告書(1)」という文献によれば、左側面に「武刕」の文字と、基礎正面に「弐拾」「講中」「四人」の文字が確認できるということです。後者については、この庚申塔は二十三夜塔と共に置かれていたことから「弐拾三夜講中□四人」などと刻まれていたものの一部だろうと推測します。つまり月待講のメンバで庚申待ちもやっていて、庚申供養の記念に建てたものと推測できます。
角塔(左)
正面: {武州都築郡 下長津田村}
天面に穴が開いた角塔です。造立年代は分かりません。
二十三夜塔
正面: 二十三夜塔
正面左: 秋巌原翬書
背面: 嘉永三年
嘉永3年(1850年)の二十三夜塔です。秋巌原翬という銘があります。この人物は江戸時代後期の江戸の書道家のようです。
先にも書きましたが、二十三夜塔は月待講が建てる記念碑です。月待講というのは特定の月齢の日に会食と読経をする講で、一般には女性だけで構成されます。言わば昔の女子会ですね。二十三夜塔は月待講の中でも、二十三夜の月を拝む講がその記念に建てるものです。恩田や長津田の周辺エリアでは二十三夜派が多かったようで、恩田村エリアにある川戸と下恩田の富士塚の月待塔も二十三夜塔です。
角塔(右)
右側面: 享保六辛丑天 長津田村
正面: 奉造立地蔵尊念佛供養
左側面: 十月廾四日 同行十八人
享保6年(1721年)の角塔です。先ほどメモしたもうひとつの角塔と同様に天面に穴が開いていますが、それよりも高さがあります。この角塔は造立目的が明確で、地蔵像のために作られたことが分かります。
地蔵立像(左)
頭部が無くなっており破損が激しく、文字などは確認できません。
地蔵立像(右)
これも頭部が無くなっており破損が激しく、文字などは確認できません。左側の地蔵像より若干小さめで、石質が異なるように見えます。
ここに地蔵像2体と角塔2本がありますが、角塔はそれぞれの地蔵像の土台として作られたものではないかと思います。角塔の天面に蓮座を組み合わせ、その上に地蔵像を置くようになっていたのではないでしょうか。その例が次の画像です。
▲萬福寺の古い六地蔵 角塔を土台として蓮座と地蔵像が乗る
出典: 田奈の郷土誌(田奈の郷土誌編集委員会) 83ページ
角塔のひとつは地蔵像と関連があることが明らかで、その点とも辻褄が合います。そして地蔵像の造立年代は角塔と同じ頃、つまり江戸時代中期の享保の頃と考えることができます。また、地震などで度々倒れ落ちたと考えると、頭部が折れていることの説明にもなりそうです。
現在ある石仏はここまでですが、「緑区石造物調査報告書(1)」という文献によると他に「□神塔」と刻まれた石塔もあったようです。
□神塔
正面: □神塔
出典: 緑区石造物調査報告書(1) 図版
初めの1文字が判読できないものの、同文献ではこれは「塞神塔」であろうと記しています。私にはこの1文字が「塞」であるようには見えませんが、かと言って他に思い当たりも無いのでその説を支持することにします。
江戸時代の大山街道は大山詣の旅行者が昼夜問わず行き来していたと言われています。人の行き来が多ければ、それに紛れて盗人などの悪人が入ってくることもあり、疫病が入ってくることもあります。そういう厄災を防ぐために、昔の人々は村や街の境に塞の神を祀って結界を張ろうとしました。
ここは長津田の宿場から続く町並みの一番端でした。しかもその先は村の境です。長津田村にとってここは塞の神を祀る場所として極めて合理的だったと考えられます。2体ある地蔵像も塞の神として置かれたものだろうと思います。
この度宅地開発によって引越しを余儀なくされた石仏群ですが、災難かというとそうでもありません。
丘の上からは少し遠めに国道246号線の往来を見渡すことができます。少し離れて俯瞰できて、むしろ以前より眺めも日当たりも良くなったかもしれません。
余談ですが、ここまで書いてふと思いました。この石仏群が元々あった地点Aは本当に元の場所なのでしょうか。なぜ街道の本筋ではなく枝道に入ったところに置かれていたのでしょうか。実は引越しは初めてではないかもしれません。
石仏群の前を通る国道246号線は、古くからの道筋をほとんど変えずに、江戸時代以前の人馬の道から現在の広い道路になるまで拡張が繰り返されてきました。もし古い大山街道の路傍に石仏が置かれていたなら、拡張の支障になるので近くの別の場所に移動したと考えるのが自然です。地点Aは、大山街道の路傍に置かれていた石仏を国道246号線の拡張に際して移動した場所なのかもしれません。特に地蔵像関連の石仏は地点Aの中でも不安定な場所に置かれていたのでその可能性が高いのではないかと思います。
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