北門堰

現在の青葉区しらとり台と緑区いぶき野の間を流れる恩田川には昔、農業用の取水堰がありました。



恩田村で最大の堰で、北門堰(ぼっかどぜき)といいました。

少なくとも江戸時代後期からあった古い堰ですが、昭和42年(1967年)頃に行われた恩田川・岩川・北門川の河川改修事業によって姿を消し、現在はその機能を豊水堰新林堰に引き継いでいます。堰があった場所は畑になっています。

恩田川の川戸橋付近の左岸にあるしらとり台71番地の畑がその跡地です。下の写真で矢印をつけた樹の辺りに堰がありました。



▲北門堰の跡地 矢印を付けた樹の辺り


河川改修以前の航空写真で周辺の様子を見てみます。



出典: 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 空中写真 1948-USA-M736-93(加筆)


北から南に流れる恩田川に堰があることが分かります。そこから西へ向かって細い水路が分かれ、その先で南へ東へと向きを変えて南へ流れていきます。

青色で書き入れた細い線は恩田村と長津田村の境界です。この辺りは新林堰のところと同じく、恩田村の領域が恩田川を越えて対岸まで飛び出していました。飛び出した場所の地名は堰の名前に因んで北門堰といい、水田がありました。

近くの段丘上にあるいぶき野第二公園から、堰や水田があった場所を眺めることができます。



黄緑色の線は北門堰で分けた水路が流れていた場所です。段丘のすぐ下を通って恩田村の水田の脇を抜け、写真右側の下流へ流れていきます。つまりこの堰は、恩田村に在りながら恩田村ではほとんど利用できなかったのです。

この堰は下流の村々のための堰でした。江戸時代後期の天保年間に書かれたと推定されている十日市場村明細帳に次のように記されています。

草堰壱所、隣村恩田村地内にて築き来たり申し候。當村始め榎下村、久保村、台村、寺山村、中山村、猿山村、都合七ヶ村用水場路壱里程御座候。

草造りの堰を1箇所恩田村に築き用水とする。十日市場村をはじめ榎下村・久保村・台村・寺山村・中山村・猿山村の7村で用水路が4kmほどある。というような内容です。

これを出典として北門堰の水を下流の7村で利用していたとする文献が散見されますが、実は少し違います。北門堰から下流の地図を描いてみました。



北門堰から分かれた水路は十日市場村・榎下村を経て、久保村のところで恩田川に放流されていました。なのでそれより下流にある4つの村々には流れていません。新編武蔵風土記稿の各村々の項を見ても、

十日市場村
恩田川 長津田村より来り榎下小山両村の間に達す。村内を流ること凡二十丁。用水にも恩田村にて此川を堰入、この堰七ヶ村組合持にて當村も此分水を引用ゆ

榎下村
用水 鶴見川(※)を分水して村内につづく。久保村の内窪谷より出る清水合して一流となり、又久保村に入る。
※鶴見川は恩田川を指す。

久保村
恩田川 北の方榎下村より入、村内を流る。川幅五六間ばかり。小山村の境を流て台村へ達す。此他枝流れあり。十日市場村内にて恩田川を堰入、其枝流當村へも引来て用水とせり

と記されている一方で、それより下流の台村・寺山村・中山村・猿山村の項にはこの水路のことが記されていないばかりか、台村の項には『用水不便なれば天水を貯へて水田に沃く』と記されていて、溜め池に頼らざるを得なかった状況が記されています。


では何故、北門堰が「七ヶ村」持ちだったのでしょうか。

水田を持つ農村にとって、水は人々の生死に関わる不可欠かつ重要な資源でした。稲作では夏の間常に水田を水で満たしておかなければいけません。さもなければ稲は枯れ、食べるものを失ってしまいます。即ち生活が破綻してしまうのです。それはどの村にとっても同じことで、お互い理解して水を分け合っていました。

問題は水が少ないときです。水の大半は川から供給されます。川は上流から下流へ流れるので当然上流の村ほど有利になります。だからと言って上流の村で必要十分な量の水を取ってしまうと下流への供給は減ってしまいます。そうなれば死活問題。下流の村人が上流の村へ談判に出向き、それでも決裂となれば奉行所に駆け込むか、あるいは農具や竹槍を担いで殴り込む、という時代劇で見るような争いが起こります。



こうした争いを防ぐため自主的に、あるいは奉行所のお達しによって、隣村同士での水の権利や非常時の取水制限に関する取り決めを作り、その通りに運用するための組合が作られました。特に明治期以降になるとそれは水利組合という名前で広く普及し組織されるようになりました。現在でも取水堰があるところにはほぼ必ず水利組合があり、その枠組みで運用されています。



さて、北門堰下流の村々に話を戻します。

十日市場・久保・台・寺山・中山・猿山の7村はいずれも恩田川と鶴見川の合流点より上流で取水する村でした。しかしその間で恩田川に流入する河川は乏しく、北門堰で大量の水を堰入れて十日市場・榎下・久保の3村で使ってしまえば、台・寺山・中山・猿山の4村は恩田川から充分な水を取ることができなくなってしまいます。

つまり下流の村にとっても北門堰は村の水利に大きな影響を与える存在であり、その利用に関しては大いに口出しをしたかったはずです。おそらくこうした経緯で、直接配水されない村も含めた「七ヶ村」の組合ができたのだと推測します。


北門堰は河川改修によって消滅しましたが、水田は昔とほとんど変わらない範囲に広がっていて、昔と変わらず多くの水が必要とされています。現在は豊水堰新林堰がその範囲への配水を担っていることは冒頭に書いたとおりですが、それを地図にしてみました。



昔の水路と重ねてもその配水経路は大きく変わっていないことが分かると思います。江戸時代でも現代でも、大きな視点で見ると地形はそれほど大きくは変わらないのです。特に水の流れに関してはこの傾向が強いと思います。

新林堰の水は環状4号線より上流側(西側)のエリアに配水しています。そして豊水堰は恩田川の両岸にポンプ施設がありますが、このうち右岸のものが環状4号線から下流側(東側)のエリアに配水しています。これらを合わせて昔の新林堰と北門堰を合わせたエリアの配水をカバーしています。



▲恩田川右岸の豊水堰ポンプ施設


環状4号線の西側にある東名高速道路脇の農道沿いに、新林堰から流れてきた水と豊水堰で汲み上げた水が合流するところがあります。



上の写真の奥から手前に流れる溝渠が昔の水路に代わる新林堰の水で、手前のパイプが豊水堰の水です。



夏場の稲作シーズンはなかなか豪快な流れを見ることができます。

この水路は東名高速道路のガード下を潜って旧十日市場村と旧榎下村エリアの水田に流れていきます。

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