吹上(成瀬五丁目)の石仏群

恩田エリアは神奈川県横浜市の西の端にあり、すぐ隣は東京都町田市との都県境です。昔もここが郡の境になっていて、恩田村は都筑郡の恩田村で、西隣は多摩郡の成瀬村でした。

成瀬街道を西へ進んでいくと、恩田町の上和田の先で都県境に差し掛かります。



成瀬街道のカーブのところに成瀬尾根の南端が迫り出していて、ちょうどこの辺りだけ大きな樹が茂る森のようになっています。



都県境を越えて東京都に入ったところ、つまり昔の多摩郡成瀬村に入ったところの擁壁に窪みがあります。



その中に3体の石仏が置かれています。



吹上(成瀬五丁目)の石仏群です。町田市成瀬五丁目21番地の一角です。



左側から順にメモしていきます。


庚申塔(左)

 正面右: 奉納庚申待 武州多摩郡
 正面: (阿弥陀如来立像)
 正面左: 元禄二天己九月廾七日 小山田庄成瀬村


阿弥陀如来を主尊とした元禄2年(1689年)の庚申塔です。武州多摩郡小山田庄成瀬村の銘があることから、村境から僅かとは言え、やはりここは成瀬村であったことが分かります。


庚申塔(左から2つめ)

 正面: 奉納庚申供養塔
 右側面: 元禄十四年拾一月吉日
 左側面: 武刕多摩郡成瀬村


元禄14年(1701年)の文字庚申塔です。「成瀬の石佛」という文献によれば、本来は笠付きの角塔だったようです。笠は破損が激しく載せて置くことができず、傍らに置かれていたようです。


地蔵菩薩像

 正面右: 念佛□供養□地蔵□・・・
 正面: (地蔵菩薩立像)
 正面左: 寛文十一年□月二日


寛文11年(1671年)の地蔵菩薩像です。村外れに置かれた地蔵は塞の神として置かれたものと考えられますが、「成瀬の石佛」という文献には次のように記されています。

この地蔵尊を含む三体の石仏は、現在の道路(天王様があった)下にあったが昭和二十三年の道路改修・整備により、現在地に移った。尚、現在の道路を整備中、天王様があったと思われるところの切り通しに穴があき、そこから人骨と刀の二振りが発掘されている。「成瀬郷土史」は、この地蔵を『首切り地蔵』といい、これは吹上と東光寺との境界争いで死んだ初代七兵衛(焼石当左衛門)を哀れんで建てた地蔵であると述べている。

民話、「焼石当左衛門」
焼石当左衛門は吹上の野武士で、東光寺の原嶋源(儀)右衛門と土地争いをし、境界に炭を積んで、その境界を確保しました。そして川と田を越えて領地を取った功績により、小山田地頭から川田という姓をもらいました。ところが初代川田七兵衛(焼石当左衛門)は、何者かに殺されてしまい、それを哀れんで村人が地蔵を建て供養しました。別の名を「首切り地蔵」とも言われています。


これを読むと実にいろいろなことが書かれているのですが、まずは地理的なところから理解してみたいと思います。昔と現在の地図を重ねて描いてみました。



実は中世の頃、この辺りは交通の要衝になっていました。恩田川に現在もある都橋のところには昔から橋があり、南北に走る鎌倉街道上ノ道の枝道と、橋のすぐ南で交差する鎌倉街道中ノ道の枝道がありました。さらに橋の北側では恩田村を経て江戸方面へ続く街道が交差していました。

現在の成瀬街道ができる前、石仏は現在の成瀬街道の下にあったと記されています。これはおそらく恩田村との間にあった古道を指しています。その古道は現在も生活道路として残っています。



▲石仏が元々置かれていたと思われる道


昔、この道の左側には恩田川が蛇行して迫り、右側には成瀬尾根の崖が迫っていました。その僅かな隙間にこの道が通っていた訳です。天王の社があり人骨と刀剣が発掘されたというのは、現在は成瀬街道が通っている、この道の崖上にあたると考えられます。

この人骨が実は焼石当左衛門=川田七兵衛のもので、刀剣はその副葬品という推測も成り立ちそうです。野武士であったなら山中に埋葬されてもおかしくはないと思いますが、この発掘に関する資料が見つからず、詳しいことは定かではありません。


成瀬街道の石仏の話としては余談になりますが、恩田川の対岸に目を移すと、現在そこには町田市の下水処理施設があります。この辺り一帯が昔、江戸時代に土地争いが起こったと言われる水田があった場所です。そこに迫り出す形で崖山と呼ばれる小さな丘があります。



「成瀬の石佛」に書かれている話は、成瀬村吹上の焼石当左衛門と東光寺の原嶋源右衛門が土地争いをし、その結果焼石当左衛門が土地を得たという内容でした。その後焼石当左衛門=川田七兵衛が何者かに殺され、その供養として建てたのが成瀬街道にある寛文11年(1671年)の地蔵菩薩像であるということでした。

一方で原嶋方は、土地争いの件で偽の証拠を使い奉行所を欺いたという罪で一族全員が処刑されてしまいました。それが行われたのが崖山だと言われていて、崖山には一族の供養として建てられた仏像が現在も残っています。損傷が激しく本来の主尊は不明であるものの、台石に『奉造立於石成不動尊形』と刻まれていることから不動明王であったと考えられます。享保14年(1729年)の銘があります。



両者に刻まれた年代を見ると、この間が58年もあるのです。不動明王像については年忌で建てられたという説もあり、処刑が行われたのは享保元年(1716年)であるとも言われていますが、そうだとしても45年も離れているのです。ひとつの土地争いに関する事件にしては年代が離れすぎているため、伝承のうえでどこかに混同や錯誤があるような気がします。あるいは長年に掛けて何度か応酬が繰り返された末の決着だったのかもしれません。

伝承や石仏に残る大きな事件だったので当時の恩田村の人々にも噂は伝わっていたと思いますが、この件に恩田村の人物は登場しません。恩田村と長津田村の境には恩田川があり、恩田村と成瀬村の境は成瀬尾根で仕切られていたので、争いの種も無かったのでしょう。くわばらくわばらと対岸の争いを眺めていたかもしれませんね。

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