恩田倉庫

恩田倉庫は、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)頃に東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・填薬所(現在のこどもの国)の場外に設置された付属施設です。南洋の戦闘が激化し大量の弾薬が生産される中、填薬所内で収容しきれなくなった諸々の資材を保管する目的で作られたと言われています。

具体的なことは陸軍の内情であり地元の人々にも知らされていなかったようですが、砲弾のような大火力の弾薬類を出し入れしている様子は無かったようです。建造物も木造長屋ばかりだったので、火薬を包む紙や布袋、建築資材など危険の少ない物資の保管が主だったと考えられます。

一方で戦後陸軍が引き上げた後には周辺で銃弾が拾えたという地元の証言があります。そこから推測するに、小火器類の弾薬も多少は扱われていたのかもしれません。子供が拾って焚き火に投げ入れるという遊びに使い、怪我をする者も出たそうです。


倉庫群は旧恩田村エリアの池谷・白山谷・苗万坂の一帯に広がっていました。当時の航空写真で確認できただけでも20余りの倉庫が立ち並んでいて、さらに周辺には数多くの防空壕や地下壕(地下倉庫)が掘られていました。

下の地図は田奈部隊の全体像です。



長津田駅から北に伸びる引込線(現在のこどもの国線)の先に田奈部隊填薬所(現在のこどもの国)があり、その中間にあたる恩田村エリア内に恩田倉庫がありました。

田奈部隊の本体である填薬所が現在のこどもの国の場所に決定された理由は次のように言われています。

・鉄道(長津田駅)へのアクセスが容易である
・手掘りが可能かつ適度に丈夫な岩盤の地質である
・樹形に枝分かれした谷戸が爆発事故の際に隔壁になる

これらに関して言うと恩田倉庫周辺も同様の条件を満たしていました。東側の長芝原を貫く蝉谷、西側の白山谷・池谷と、東西2つの幹となる谷戸に枝が付いている様子もよく似ています。

私の推測ですが、恩田倉庫は思いつきで建て増しされた訳ではなく、当初から田奈部隊の候補地のひとつとして挙がっていたのではないかと思います。終戦までに開発されたのは西側一帯ですが、東側にも周回できる道路が整備されていたことを踏まえると、戦争が続いていたら東側まで倉庫が立ち並んだのだろうと思います。

軍事施設だったため公式な資料等は終戦時に破棄され残っていません。しかし西側一帯の地形はほぼ当時のまま残っています。当時を知る地元の方の証言などを交えて現在の様子を見ていってみたいと思います。

まずは地図を作ってみました。



恩田倉庫は現在の中恩田橋交差点から北東へ入った先にありました。その道路は現在の横浜青葉ガーデンのところで二手に分かれ、東側は長芝原の蝉谷を幹とした谷戸の一帯、西側は白山谷を幹とした谷戸の一帯に続きます。両者は現在の田奈高校の辺りで尾根を越えて繋がり、さらに北西の南坂からは本拠地である填薬所へ通じる近道もありました。これらの道路は陸軍が恩田倉庫のために建設したものです。一部既存の道筋を利用しましたが、いずれにしてもトラックが通れるように拡張をして作り直しました。

倉庫群は図中A~Iで示した9つの谷戸に散在していました。グレーの長方形は1944年(昭和19年)10月に撮影された航空写真で確認できた建造物を示しています。ただし終戦時にはもう少し増えていた可能性が高いです。地点Bの北側には戦前と戦後で若干地形が変化している場所があります。


現地を歩いてみます。

横浜青葉ガーデンの南側にある交差点は、恩田倉庫の東側と西側の分かれ目になっていた入口です。



まずは右側(東側)へ進みます。

その先のガソリンスタンドがあるところが、地点Aの谷戸の入口です。



このガソリンスタンドのところに1棟目の倉庫があり、谷戸の奥へ向かって全部で7棟の倉庫が並んでいました。



現在は住宅が立ち並んでいますが、よく見るとその住宅街が谷戸の地形の中にあることが分かります。突き当たりには松風台第三公園があります。



この公園が当時の谷戸の奥にあたる場所です。公園内のグラウンドの奥のほうまで倉庫が並んでいました。

次の地点へ向かいます。横浜青葉ガーデンの東側にある桂台遊水池交差点付近が、地点Bの谷戸の入口です。



現在は商業施設と住宅街として造成され、当時の面影は全く残っていません。この辺りには3棟の倉庫がありました。

恩田倉庫の入口まで戻って、こんどは左側(西側)へ進みます。白山谷を通ってすみよし台方面まで続く狭い道路です。



この道路は元々1間(約1.8m)幅の生活道路だったものを陸軍が2間(約3.5m)幅に拡張整備したものです。舗装されたことを除けば当時のままです。

この道路の右側に立ち並ぶ住宅の裏の崖には7本の地下壕がありました。



崩落の危険があるということで近年埋め戻されてしまいましたが、その跡はところどころに確認することができます。



20年ほど前に、そのひとつの内部を見せてもらったことがあります。ただの防空壕と言うよりはちゃんとした地下壕で、車が出入りできるぐらいの幅と高さがありました。壁面はスコップで削ったような跡がありましたがよく整った台形の断面をしていて、奥は平らな壁になって行き止まりになっていました。

太平洋戦争当時は実際にこれらの地下壕に陸軍のトラックが出入りしていたそうです。つまり地下倉庫として使われていたということです。

この辺りの道沿いに2棟の建物がありました。地点Cの万年寺谷戸の入口です。



ここにあった建物は飯場でした。住んでいたのは軍人ではなく恩田倉庫の建設に携わっていた労働者で、内訳はほとんどが朝鮮人だったようです。



谷戸の奥に進んでいくと道路の右側に地下壕の跡があります。



そのすぐ先にある畑地には、2棟の倉庫がありました。



さらに道を進んでいくと、ところどころに壕の跡があります。



そして行き止まりには、埋め戻されずに残っている数少ない壕のひとつがあります。この壕の前にも1棟の倉庫がありました。



壕の内部の様子です。



少し天井が低い造りになっています。倉庫として使った地下壕ではなく防空壕だったのかもしれません。

戦争末期の1945年(昭和20年)には連合国軍側にも田奈部隊の存在が知られていたようで、填薬所の裏にあたる町田市の三輪町や恩田倉庫周辺にも田奈部隊を狙ったものと考えられる爆撃がありました。白山谷の溜め池はB29爆撃機が投下した爆弾によって開いた穴だと言われています。ただしこの辺りには同様の溜め池がいくつかあったので、現在も残っている溜め池がその穴であるかは定かではありません。

また、終戦間際の1945年(昭和20年)4月16日未明には奈良町内に1機のB29爆撃機(機体番号44-69882)が墜落しています。これは川崎市市街地を目標とした爆撃作戦(川崎大空襲)で迎撃を受け損傷した機体が田奈部隊への特攻を図ったものだと言われています。

次は隣の白山谷にある地点Dです。



谷戸の入口からすぐの左側の畑の中に、1間四方ぐらいのコンクリート製の貯水槽があります。



これも陸軍が作ったもので、この他にも数箇所に点在しています。現在のこどもの国の園内でも同様の貯水槽を見ることができます。



飲み水に困る場所ではないので防火用水だったのだろうと思います。だとするとこの辺りには紙など防火に気を使う物を保管していたのではないでしょうか。

道を進むと左側が開けた平地になります。



この辺りに2棟の倉庫がありました。

その先で資材置場に突き当たります。



この場所にも1棟の倉庫がありました。

資材置場の左側にある道を進んでいくと先ほどと同じ形の貯水槽があります。こちらのものは水が貯まっています。



資材置場の裏にまた平地が現れます。



この辺りにさらに3棟の倉庫がありました。

道は竹薮の中に続いていきます。



昔は現在の田奈高校のほうへ続いていた峠越えの山道で、現在は尾根の上まで達した後すみよし台第四公園の近くに抜ける道になっています。

谷戸の入口に戻って水田地帯を横切ります。地点Eの谷戸です。



ここは畑になっていて地面が分かりやすいので、倉庫があった位置を青色で書き加えてみます。

谷戸の入口に近いところに2棟の倉庫がありました。



道を挟んでその向かいにある斜面には防空壕がありました。



20年ほど前には既に崩落が進んでいて、入口の上部だけが僅かに開いていた状態でした。現在では完全に埋まっています。

谷戸の中ほどにもう1棟の倉庫がありました。



さらに谷戸の奥、現在は竹林になっている裏の辺りにもう1棟の倉庫がありました。



この竹林の中にも貯水槽があったと記憶しています。

谷戸の入口に戻って池谷の水田沿いをすみよし台方面に向かいます。



この道は陸軍が恩田倉庫の道路として新しく作った道路です。20年ぐらい前までは未舗装のままで、良い田舎らしさを醸し出していました。

ひとつ目の路地が地点Fの谷戸の入口です。



道の右側に資材置場があります。



この手前に1棟の倉庫がありました。

先に進むと左側に畑が現れます。



ここにもう1棟の倉庫がありました。

池谷の道に戻って再びすみよし台方面へ進むと、左側に塀で囲まれた谷戸があります。ここが地点Gです。



谷戸の中全体が立入禁止になっているため、中の様子を見ることはできません。



地元では「影」とも呼ばれている谷戸です。この谷戸の入口付近と奥のほうの2箇所に合わせて3棟の倉庫がありました。

入口付近には防空壕が現在も残っています。



壕内の構造は万年寺谷戸で見たものと同様です。



さらにすみよし台方面へ進むと、すみよし台の住宅地に入ります。



その境が地点Hの谷戸があった場所です。



現在は宅地として造成され、当時の面影はありません。

ここには1棟の建物がありました。万年寺谷戸の飯場同様に労働者の住まいだったものです。この谷戸からは内田の尾根を越えて井戸久保にあった南寮に抜ける道がありました。南寮は田奈部隊の労働者が住んでいた最も大規模な飯場です。そこから労働者を融通しながら恩田倉庫の建設が進められていたのだと思います。

最後に地点Iです。



地図上ではすみよし台の住宅街の坂を上りきったところに該当します。

しかしすみよし台の住宅街は池谷を埋めて造成された宅地です。なので地点Iの谷戸は住宅地の下に埋まっています。そこには1棟の倉庫がありました。


戦後、田奈部隊填薬所が米軍に接収された一方で恩田倉庫はそれを免れました。倉庫群は解体され、地下壕や貯水槽などの遺構を除いて原状に戻されました。これが国有地化されたまま地主に戻ってこなかったこどもの国と戻ってきた白山谷の分かれ目だったと思います。

万年寺谷にあった労働者の飯場だけは1960年代半ば(昭和40年頃)まで残されていました。戦後引き上げなかった人々が住んでいたためです。しかしそれも充分ではなく、住む場所に困って防空壕を住処にする者も居たようです。戦時の仕事で恩田へやって来て戦後も住み着いた人々が一定数いたということですが、飯場が解体された後どこへ移り住んだのかは定かではありません。

こうして恩田倉庫は消滅して現在の姿になりました。



私は中恩田に生まれて、田奈駅の周辺から徳恩寺の周辺まであちこちで遊んで育ちました。そこで不思議に思っていたことが、それらの地域の中でも白山谷の周辺にだけ多くの防空壕があることでした。大人に訊くと戦争の頃に空襲を避けるために掘ったものだと言います。それなら防空壕が無い他の地域の人は大変だったろうなと思っていましたが、実はただの防空壕ではなかったのです。恩田メモを始めてこの件を調べて、やっとその答えを知ることができました。ここは軍事施設があり、だから地下壕や防空壕があり、他の地域はそうでなかったから防空壕が不要だったのです。

ところで今日は終戦記念の日ですね。そんな日に戦争遺構のメモを書いて何か上手いことを言いたい、という訳ではありません。8月の初めに書こうとしていたのですが間に合わず、先週末からは旅行に出掛け、今日書き上げることになったのは全くの偶然なのでした。

ですがせっかくなので一言。恩田に爆弾が落とされるようなことは二度とありませんように。

このメモをシェアする

       

このメモにコメントを書く

コメントは筆者だけに送信されます。